平成の広域合併で出雲市となる前のふるさと大社町の懐かしい街角・遥堪地区を紹介するサイトです。
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遥堪地区

菱根遥堪入南
遥堪地区の変遷といわれ
 遥堪の知名は、古く平安時代の文献にある。
 鎌倉時代の遥堪郷(現大字遥堪)は、大社神領として国造家の開発、国司の寄付などにより形成され、杵築大社領「12郷」の中でも、極めて早い段階で組み入れられた作物のよく取れる郷であった。また、入南と菱根の一部は、江戸時代から既に開発されつつあったが、朝山郷に属していた。
 江戸時代に入り、松江藩も開発に努め、当時、菱根、入南には相当新田があったと思われるが、まだ菱根池も残っており、大部分が沼地状態で、雨が降れば湖状態であったと思われる。そこに藩の命を受け、三木与兵衛が水を堀川に通す工事を完成させ、検地が行われ、ここに菱根村・入南むら・江田村・八島村・浜村の5ヵ村が本村となった。その後、江戸時代には、出雲国十郡の1つ神門郡に属し、さらに6組に分けられた中では、遥堪・菱根村は、北山手組に、入南村(鑓ケ﨑も含む)は、北中筋に属し、行政区分が異なっていた。
 明治時代の変遷は、
 ◯明治4年・・・江戸時代の村制が廃止され、区制がしかれ、遥堪村・菱根村・入南村・江田村・八島村・浜村・常松村・松寄下村・八ヵ村は第43区となる。(区会所は小山村に開設)その後幾度か改編される
 ◯明治11年・・・区制が廃止され、郡村制になり組合村が生まれる。
 ◯明治17年・・・遥堪村・入南村・菱根村・北荒木村・修理免村5ヵ村が入南村(鑓ケ﨑)に戸長役場を開設。
 ◯明治22年・・・市町村制が施行され、遥堪村・菱根村・入南村・浜村の4ヵ村をもって遥堪村となし、役場を入南村乙見神社内前に設け、従来の村は大字となる。
 ◯明治33年・・・浜村が分離して高松村に合併し、遥堪村の区域は遥堪・菱根・入南となる。
 その後、遥堪村として現在の地区構成で昭和26年(1951)の大社町合併を迎えた。

遥堪の地名由来
 遥堪の地名由来には、確定したものはなく、様々な説がある。
 (1)阿須伎あずき神社の御祭神が賀茂族の遠祖とされていること、風土記の官社に記載されている阿受伎あずき(柷)社11社の内、4社が独立して記載され、他の7社は単に「同社」と記載されている事実に着目し、「四つの賀茂(ヨカモ)」の転音ではないかという説。
(2)16世紀頃までの古文書には、「遥郷」と「遥郷」の2通りの表記がある。
  ①遥堪郷について
   出雲風土記の時代、「郡家」(斐川町出西にあった当時の役所)から弥山を主峰とする北山一帯がはるか遠くに突き出ているように見えることから名づけたという説。(堪は「突き出ている土地」という意味がある)
  ②遥勘郷について
   中央にいて、地方に赴任しないでいる遙任の遙であり、「勘」は「勘解由使」などの用例のように行政・徴税の観察という意味である。遙堪郷は貴族や天皇が名目上の領主であった頃、遠くにいて年貢を有力者に任せていたという説。
(3)昔、菱根池を眺めていて、遥かに水を湛えるという「遥湛」が後世「遥堪」に変わったという説。