第12号 1010年 小村(こむら) 多一会長挨拶
小村会長写真
あいさつ

 ふるさとを後にしてはや半世紀が過ぎて、二十世紀も終わりを告げようとしています。いま、静かにその歩みを振り返ってみますと、出雲大社のお膝元で生まれ育ったという誇りと、その喜びの大きさに気がつくのです。
 そんなわけだから、出雲大社などという活字にお目にかかりますと、なにはさておいても真っ先に読んでしまいます。 四月末の出雲大社境内遺跡の発掘現場から、平安時代の後期の本殿を支えた巨大な柱材が発見されたニュースに対しては、各紙を見比べながら、それこそ熱心に読み耽ったものです。
 その柱材が三本束ねて、なんと直径三メートルにも及んだといわれていますから、高さ十六丈(約四十八メートル)もあったという伝承が単なる「夢物語」でなかったことを証明されたようで、天にも昇る気持ちでした。
 一〇三〇年前の天録元年(九七〇年)、(みなもと)為憲(ためのり)が書いた『口遊(くちずさみ)』の中で、当時の建物の規模の大きさを表現して 「雲太(うんた)和二(わに)京三(きょうさん)」と詠んで、 出雲大社を真っ先に挙げてくれているのは、われわれの自尊心をさらに高めてくれたものとして、小躍りするような気分でもありました。
 「雲太」とはいうまでもなく杵築大社(出雲)の神殿であり、「和二」は東大寺仏殿、「京三」とは平安京の大極殿を指しており、古くからのまつりの場として杵築大社の存在は、全国広く知られていたことがよくわかります。 二十世紀を締めくくる本年、望外な朗報に接したことは大変喜ばしいことです。
 このような遺跡が古代ロマンをかき立ててくれたとするならば、昨秋、オープンした『大社文化プレイス』は、近代的な設備を兼ね備え、シンボルである『文化会館』や『図書館』がやわらかい光に包まれて、 薄暗い山陰のイメージを一掃しているのは、見るからにして健康そのもの。建築設計の巧みさ、素晴らしさ、規模の大きさに思わず感嘆の声を発したのを覚えています。
 文教の町、神都大社町の声価をより高らしめたものとして、近来にないビッグニュース。全国に誇り得る『メモリアルホール』の誕生とでもいうべきでしょうか。 二十一世紀を迎えるにあたり、新旧『大社町の誇り』を、声を大にして宣伝できますことは、正に『大社人』冥利に尽きる思いがします。
 このような祝賀ムードが一つの起爆剤となり、郷土の活性化に繋がってくれれば・・・と、ひたすら念じているのです。