第5号 1993年 近畿・大社会 小村(こむら)多一会長挨拶
小村会長の写真
(アサヒプランニング(株)取締役会長)
(日刊スポーツ新聞社 社 友)

見たり聞いたり話したり

<思いつくままに>
 いささか旧聞に属するが、今年のゴールデンウィークに、恒例となっている大社町との交流懇親会に出席するため、ふるさとを訪れた、連休の前半は雨にたたられたようだが、私たちが参加した3・4日は絶好のお天気。 しかも雨で洗われたあとの新緑を満喫したり、地元の皆様の大歓迎を受けたりで、最高のしあわせだった。
 私はどちらかといえば雨男の部類に入る。職業柄、多くの会のお世話をしており、例えば70人のメンバーを擁する「モンキー会」親睦ゴルフ大会のデータを見ると、なんと25回中19回も雨嵐の記録が残っている。 4月28日・箕面ゴルフ倶楽部で開催した近畿・大社会ゴルフ部会(KTG会)結成記念大会の当日も、お決まりの雨で、すごく恨まれたよな気がする。 箕面GCの理事長や支配人なども先刻ご承知で、雨が降って欲しいときには、わざわざ私を指名するくらいだから、かなり有名である。関西若手のホープ・井戸木鴻樹プロの挨拶もこうである。「今日は雨の練習をさせて頂きます」−。 帰郷した際の宿舎は「日の出館」。若おかみは「また雨をもってきたんですか?」。いよいよもって有名のようである。
島根ワイナリーでの歓迎会  ところが、その積もり積もった悪評とは裏腹に、滞在期間中はすこぶるつきの快晴。島根ワイナリーでの交流懇親会の挨拶で冒頭から「近畿から晴れを持参した」と、胸を張った裏には、実はこのようなエピソードがあったからである。 出雲大社教・千家達彦管長のお供をした親睦ゴルフの方も天気に恵まれてホッとした。
 これで、雨男の汚名も吹っ飛んだとホクソ笑んだのも束の間、5日夕・出雲空港でJリーグ「ガンバ大阪」の釜本邦茂監督とばったり会った。なんでもこの日、浜山でのオープン戦のため訪れたとのこと。 彼はかつて日刊スポーツ新聞社が主催した「少年サッカー教室」の校長先生で、もちろん顔見知り。「へぇー出雲の出身でしたか。私は三度島根にまいりましたが、いいところですね。緑は多いし空気もうまいです。それにしても、あの時は降りましたね」・・・。
 せっかく忘れようとしている時に、よりによって昔の古傷に強烈なシュートを放ってきた。平成元年に開催した少年サッカー大会最終日のセレモシーで、ふたりともずぶ濡れのなかで表彰したのを覚えていたのである。 「で、試合はどうだった」「負けました」「Jリーグではがんばるんだね」などと、巧みに話を切り変えながら機上の人となったが、どうやら一度や二度の晴天では汚名は返上できないようである。
ご縁広場の国引きレリーフ  ところで最近の私は、大社会やいなさ会のお世話をしていることをいい口実に、毎月のように帰郷している。事実4月にはご縁広場竣工記念式典に参列したし、5月には前記の交流会にも参加した。 また6月には社中48期の美術展にも出席している。長い間の激戦から解放された気安さはあるものの、実際には出雲市塩冶町に本社を置く央粧美光の会長を兼務しているから、いわばビジネスの延長のようなものである。
 スポーツ専門の私が美容室や化粧品・健康食品を扱う会社の会長に就任したことについては疑問視される向きもあると思うので、今回はその ”なぜ” についてお答えしながら、そのいきさつについてスポットをあててみたいと思う。
 央粧美光の代表は母校大社高校22期卒の高橋光子女史。彼女は昭和45年卒業と同時に、2年余り、大阪・寺田町の洋服店に勤務していた。店舗がたまたま近畿いなさ会の常任幹事・故森山守正氏(旧大社中学32期卒・四本松出身)の自宅フロアにあった関係上、たびたびお邪魔をしているうちに、彼女が後輩だと知ったのである。
 そんなある日のこと、同期の宇家保子(旧姓原・湊原)とともに、帰郷する旨のあいさつを受けたので、早速ささやかなお別れの会を催した。
 18年も前のことだから、当然忘れている。ところが平成2年1月19日に突然、その高橋さんから電話があったのである。ちょうどその日は、明日に控えた日刊スポーツ新聞創刊40周年の記念式典の最終打ち合わせが重なり、分刻みの会議に追われている時間帯でもあった。 あとで話を聞いてみると、支社や本社で開かれている、その会議の合間を縫いながら辛抱強く連絡をとり続けたようである。 そんなこととは露とも知らないし、またすっかり忘れてしまっていたので、随分冷たい応答だったようである。旧姓・森山と聞いてやっと思い出した。そして、彼女が化粧品の会合で大阪にきていることを知ったのである。
 会ったのは翌20日、新阪急ホテル・アネックスのロビー。大阪にいた当時の彼女は痩身で、おぼこい感じの少女だったが、事業家としての貫禄か、ひと回りもふた回りも大きい感じの女性へと変身していた。
 彼女は帰郷してすぐ結婚。二人の子女を育てつつ、化粧品や健康食品の販売をしながら、美容室まで開いていることなどを手短に語ってくれた。 ほんの思いつきの、しかも気軽な送別会だったのに、義理堅いのか、その時のお礼をいいたかったのである。出会い ”触れ合い” を大事にしてきたおかげで、思わぬ再会となったのである。
 しかしながら、ここまでの話なら、とりたてて披露するほどのことではない。だが、この再開が縁となり、とてつもない大きい転機が訪れたことについては、ぜひとも書き加えておきたい。それがまたこの稿の狙いでもある。
 「先輩、随分お疲れのご様子ですね。顔色がよくないですよ」−。夜討ち朝駆けの記者時代から、取り柄は健康だけという絶対的な自信をもってきた私にさらに追いうちをかけた。 「先輩これを飲んでください。とにかく騙されたと思って飲んでください」。真剣なまなざしの彼女と、手渡された健康食品・エナジープラスのステックを見くらべながら、内心では、こんなものが効くものかと、正直なところ半信半疑だった。彼女の進言を入れて、本格的に飲み始めたのは、再会10ヶ月後の11月からである。
 この年の9月・満60才。還暦を迎えたのを契機に、吹田市役所が国立循環器病センターで精密検査を受けるよう斡旋してくれた。設備・器具類の豊富さと権威のある医師が揃っていることで有名だったから、喜んで検査に臨んだ。 が、二か月後にでた総合判定は、まるで往復ビンタを食らったように無残な結果だけが残った。
 @高コレステロール血症 A高中性脂肪血症
 B糖尿病(糖負荷試験で糖尿病型)C肝臓・腎臓障害
 体力・気力とも人並み以上を自認してきた私にとって、上記の診断は、かつて味わったことにもない屈辱だった。そんな私に逸早く救いの手を差し延べてくれたのが、前記の高橋光子さんだった。 入院を進められた私に「クスリ漬けになるよりも、エナジープラスを信頼して飲み続けて下さい。きっと回復します・・・」と励ましてくれた。もともと現代医療には抵抗感をもっていたし、だいいち親身となって勧める後輩の真意を汲んで、一つカケる気持ちとなった。 時に平成2年11月29日のことだった。この日を境に、エナジーを日に5・6杯も飲むようになったし、スクアレンも最低6個は食べ続けるようになった。担当医の進言を入れたのは食事療法のみで、あとはすべて高橋代表の意見に従った。
 飲み始めて最初に感じたことはその日から大小便の排出量が驚くほどに増えたことである。殊にオシッコの回数と量の多さにはびっくりした。おまけに日本酒を飲んだ後に飲むと二日酔いもしなくなった。 愛飲1ヶ月後、気がついてみると体重がどんどん減っていき、最高62キロもあったのが53キロまで落ちた。顔色も赤みがさしてうんと良くなっている。会う人ごとにいい顔色をしているね。と声を掛けられるようになった。
 3ヶ月後の平成3年2月の再診では、諸々の数字が平常値近くに回復、担当医は首を傾けながら、入院の必要はなしと判断した。日増しに体調が良くなると、人間欲が出るもので、さらにすすめられたローヤルゼリーも毎日2個は食べるようになった。
 この年の11月。川上哲治さんを誘ってゴルフをやった。交友40年・なんでも話せる仲だから楽しい。そのカワさんが「おいおい、早朝からお酒を飲んでいるのかね。ずいぶん赤い顔をしているんじゃないか」というのである。 エナジーを飲み始めて丸1年経っていたからその効果もたっぷりだ。実は、ということでエナジーの成分についてまず説明をしたのである。
 ここで読者の方々にも分かり易く説明をしておきたい。そもそもエナジープラスはリンゴ酸、米酢をベースにし、更に中国二千年の歴史をもつといわれている霊芝を6ヶ月以上も酢に漬け込み、 微量成分まで抽出した中に、数十種類のハーブ(セージ・ローレルリーフ・チョウジ等々)のエキスを混合。さらに細胞の働きを活発にするクロレラC・G・Fやローヤルゼリー・巨大コンブ等、ビタミン・ミネラルを豊富に含有した液体、つまり健康飲料である。 特筆しておきたいことは、エナジー製品すべてに合成添加物を一切加えていないから、何杯飲んでも体に障るようなことはない。
 このエナジープラスを愛飲することによりホルモンの分泌を促し、体液を弱アルカリ性に保って新陳代謝を活発にするばかりか、悪玉コレストロールを減らして、血液や血管の異常をただし、 合わせて成人病や慢性病の根源まで改善していくのである。短期間で上記の生涯を駆逐した私の例がそれを物語る。
見舞に訪れた川上監督  説明を効き終わった川上さんは、即座に飲むといいだした。「大体、昔から酢はからだにいいといわれていたんだ。君がそれほどまでの体験をだしたということは、こりゃ本物だよ。それと従来の観念を覆して大変飲みやすいのも魅力だと思うよ」。 「打撃の神様」「V9監督」は音に知られる慎重派。が、ひとたび行動を起こせばとことん実践していくタイプ。半月後には家族や友人にも勧めるなど、その輪はあっという間にひろまった。
 余談だが昭和38年12月18日、胃癌の手術をした父・清吉を見舞うためにその年の優勝監督・川上哲治さんは、わざわざ病院に駆け付け「ご健在のうちに十分孝養に努めるように」と励ましてくれた。おそらくそのときの顔色と数年前までの私の顔色がダブッて映っていたのだろう。 「君がおやじさんの二の舞になるのではないかと、実は心配していたんだ。青黒かった君の顔色が朱に染まっている。本当に安心したよ」。 実感の籠もるお話だが、モルモット代わりの私の元気な姿をみて、川上さんは、愛飲に踏み切ったという。ついでながら胃の大手術をした父は、以後13年間も生きながらえて52年1月25日・77才でこの世を去った。
 更に余談となるが、平成3年12月8日、近畿いなさ会の総会に、出席して頂いた千家会長にもお勧めしたところ、「便の出がよくなった」と大変よろこんでいただいている。
 一方、近畿でも私の体験談をもとに、愛飲者がどんどん増えた。それだけ、永い間の不摂生・不養生のツケに悩んでいる人が多いということにもなる。実際のにエナジーを飲み始めて2年8ケ月になるが、その間の紹介者は三百人を越えた。
 いささか宣伝めいた筆運びとなり恐縮しているが、いまや大気汚染による弊害や環境破壊のニュースは全世界の恐怖の的となっている。こういう世の中であればあれほど、自己管理の必要性を強く感じるのである。私はそれをエナジープラスに求めた。 この稿が皆様の健康保持の一助にもなればさいわいという願いをこめて、敢えて公表することにした。
川上監督の叙勲のお祝い  出雲を中心とした央粧美光がその販路を近畿・関東までに伸ばした裏には、このようないきさつがあったわけである。いまでは近畿での営業店は8社となり、東京でも顧問的な川上哲治さんの音頭によって、傘下のカワカミ企画が営業を開始するまでに至った。
 そんなことが縁となり、また日刊スポーツ新聞社の現役から退いたこともあって、昨年8月、請われるままに央粧美光の会長に就任したのである。
 故郷に帰る後輩のために開いた、ささやかなお別れの宴が機縁となり、命の恩人ともなった高橋光子女史に感謝しながら、この稿にピリオドを打つことにする。最後にもうひとこと、平成4年12月3日、東京プリンスホテルで行われた川上哲治さんの文化功労者と勲四等叙勲の祝賀パーティには、ともに招かれたことを付け加えてペンを置く。
 (大社高校卒業生会・近畿いなさ会会長)