第6号 1994年 近畿・大社会 小村(こむら)多一会長挨拶
小村会長の写真
(アサヒプランニング(株)取締役会長)
(日刊スポーツ新聞社元編集局長)

見たり聞いたり話したり

”大社野球史95年” のあゆみ
<思い出の野球人たち>

 夏の甲子園に8度、選抜大会には2回出場している。島根県立大社高校野球部は、いうまでもなく、大社町の誇りであり、、自慢のタネである。
 そんな土地柄だから、ずいぶん昔から多くの野球人や後援者がいたことでも有名である。
社中50周年記念野球大会の選手の写真  私が生まれた正門西(旧下原)は、わずか20軒あまりだったにもかかわらず、三中(現大社高校)野球部創設時代の代表選手だった「武野屋旅館」の先代・竹内繁蔵さんの後を追うようにして、 次々と素晴らしい選手を生み出したし、また、そのあゆみをじっと見守り続けた「こづちや」の店主・岩井振一郎さんのようなファンもいたのだから、全町内には、いかに多くの野球人や応援者がいたかというひとつの証明にもなるだろう。
 明治31年(1898)斐川郡立島根県斐川尋常中学校が現在の出雲市今市町でうぶ声をあげてから大社高校の歴史が始まっている。二年後の33年には県条例に基づいて急遽大社に移転が決定、34年・県立第三中学校に生まれ変わった。 当時、移転話に激高した今市町人の大社襲撃事件は ”竹槍騒動” として長く語り継がれたものの、今日では知る人でさえ少なくなった。
 だが、身をもってハネ返した杵築町民の郷土愛、団結力が、翌34年に設立された ”三中野球部” への強力な後ろ盾になったということは容易に想像できるだろう。
 三中から杵築中学・大社中学・大社第一高校・大社高校と校名は改称され、時代も大正から昭和・平成へと変わり、校舎も二転三転したが、 この93年間の流れのなかで常に圧倒的な支持を得たように、わが野球部は花形であり、運動部の頂点だったともいえる。
 しかも、杵築で野球が行われるようなったのは創部以前の明治32年、出雲大社の神楽殿横広場が発祥の地といわれ、ここから創生期の名選手・千家松麿さん(一中の松江から三中に転校)を育てあげた、 祭主 ”千家” 家の、野球に対する造詣の深さと、それを敬う氏子らの情熱とが見事に結びついて、 ”大社町野球史95年” の第一頁は開かれるのである。
昭和21年、社中野球部選手の写真  氏子からの草分けは創設当時、遊撃を守った前記の竹内繁蔵さんである。氏は明治から昭和にわたる長い間、野球部とともに生き、その育成・発展につくした功労者。 旅館の経営者としても、広く世間に知られる実業家でもあった。元県会議長の中島龍一氏をはじめ藤井春吉・森房吉・千家剛麿(尊宣)・秦昇一・奈良井朋義さんらを育てあげ、全国大会出場への足場を着々と固めている。
 大社高校が全国大会に初出場したのは杵築中学時代の大正6年・鳴尾の第3回大会で、いまなおご健在の岩石英一氏(中村町・92歳)らの活躍で、いきなりベスト4の好成績を残したのも同氏と、時の監督えのちの名管長・千家尊宣氏の采配によるものである。
大正10年・第7回大会には、同じ町内の甥にあたる「竹野屋支店」の竹内京三さんらが2度目の出場。 ”夏の大社” の地盤を固めている。大御所・繁蔵さん亡きあとは竹内京三さんの時代となる。 私の生家から三軒目という気安さもあり、 ”支店のおっつぁん” と親しく呼んではいたが、昔気質の厳格者で、自ずとひざがしらを堅くしたものである。
 ところで、冒頭で紹介した正門西の野球人は、まず竹内京三家には、主将だった功一さんを長男に、昭二・満穂・啓司・世さんという男兄弟が5人もいて、それぞれが目的を一つにする野球一家だった。隣家の岩谷家には甲子園出場の勝蔵さんと中国配電の強打者だった菊蔵(現山田)さん兄弟。 またその隣の岩井家にも野球部で活躍した康太郎と徳治(加地)さん兄弟。私ども小村家のも多一、行宏の兄弟。さらには勝透、山根芳館君らに、甲子園に駒を進めた森山明君等々、そうそうたるメンバーを輩出しているのである。
 今では懐かしい話だがそんなメンバーの真価をいかんなく発揮した貴重な記録が残っている。昭和21年夏、全町内野球が開催されて、正門西は見事、優勝の栄冠を獲得している。 なにしろ終戦の翌年のことでもあり、各町内には戦地から復員したつわものや、腕自慢のおとなたちの顔ぶれも多彩とあって大変な人気、野球どころ大社の面目躍如といったところだ。
 わが正門西は、提案者の竹内京三さんを総監督に、前記の社中OBや現役を中心としてメンバーを堅め、竹内昭二ー小村多一のバッテリーで、強豪の四つ角・宮内や馬場チームを連破、復活大会を飾っている。。 当時観戦していた岩井振一郎さん(昭和53年・93才で逝去)からお褒めのことばを頂いたのを、いまでもきのうのことのように思い出す。
 一方、戦争で中断されていた中等野球が復活したのも、やはりこの年のことである。当時、中学4年生だった私は、逸早く左翼のポジションを獲得。準決勝、決勝戦では正捕手として松江商業・浜田中学を下して準優勝。翌22年9月には主将兼捕手として秋季リーグ戦に優勝するなど、まずまずの成績を残している。
 ちなみに当時の戦績を披露しておこう。

 大社中 0 4 1 3 0 0 0 0 0 = 8 小村-森広
 大田中 0 1 4 0 0 0 0 0 0 = 5 西本-佐々木

 大社中 0 1 0 0 0 1 2 0 1 = 5 小村-森宏
 浜田中 0 0 2 0 0 0 0 0 0 = 2 梅津-大谷

 今市工 0 0 0 0 0 0 0 0 0 = 0 黒川、竹下-黒崎
 大社中 1 0 4 1 5 3 4 0 ×= 18 小村、原-谷本

 また同年10月には2年連続甲子園に出場した松江中学を3−1、母校創立50周年記念大会では秋の優勝校・大田中学を4−1でともに撃破している。当時の大社町の選手は、玄光院の藤井照秀・桑本章八(松田)川方の吾郷進、神門通りの小池穀君らである。
阪急ブレーブス沢村投手の写真  正門西と並ぶ野球どころは、北井3兄弟をはじめ数多くの好選手を続出した市場や四本松だろう。北井家の長男・正雄さんは、戦前の社中が生んだ伝説的な大投手。米鉄から関大に進み、関西6大学をも総ナメ。昭和11年、プロ野球誕生とともに阪急ブレーブスに入団。 ”東の沢村・西の北井” と並び称される、まさに一級品だった。戦後、四ツ角に居を構えた次男の善衛さんは、ノンプロで活躍、技術はもちろん指導者としても超一流。 大社高校が昭和35年から連続甲子園に出場したときの監督だった。私も現役時代にお世話になったひとりだが、その強肩の凄さは、ミットをハネ飛ばし、左人差指を裂傷するほどの威力があった。三男の充さんも同じく投手で活躍した。
 ”大社” の校名(大正15年・杵築中から改称)で、甲子園に乗り込んだのは、昭和6年の3度目の出場時で、時の二塁手が四本松の中山敏三さんだった。昭和36年、竹内京三氏の死後、OB会会長に就任。以後、母校野球部発展の功労者として、その名は高い。
 中山氏とともに甲子園に出場したのが同じ町内の伊藤白三郎さん。常にエキサイトしたような風貌で気迫も十分、その豪打は語り草。ご両人と相前後して好打の安井謙二(北井)さんや、市場の好投手、小田進吉さんに、好守の長島宏さんらの名前が浮かぶ。
 また小土地には、米鉄時代、上記の北井正雄さんとバッテリーを組んだ大谷隆義さんや、浜四ツ角には、生涯を野球に捧げた川上滝郎さんという偉大なる先輩もいた。特に川上さんは、長年母校の監督・コーチとして幾多の好選手を育てあげた人格者。 戦前はノンプロの全京城で全国優勝したときの名捕手で、戦後は中国配電の名センターであった。
 お二人の指導者とともに、戦前派を代表する上田健仁(吾郷)池田和夫(藤原)磯田邦司郎・中筋幸男・園山巍の諸先輩に、愛知・半田商出の福庭義男さんらも強く印象に残る。
 戦後、捕手としてスタートした私とバッテリーを組んだのが四本松の高橋設巳、原町の松田和彦の両投手で、高橋君は教師として幾多の好選手を育てたし、松田君は母校や監督やコーチを経験をした得難い人材でもあった。外野手は四本松の西倉実君はプロ野球で活躍、スタルヒンの3百勝達成時の捕手として名を刻んでいる。 松竹ロビンズに入団した、西倉、澄田、児玉と小村の写真 惜しいことには、この三人とも若くして鬼籍入りしてしまった。ところで、当時の一塁手はお宮通りの岩成卓君で、ファイト満々、強打の好選手だった。同じ町内には若月祐至君らの腕達者もいたし、外野を守った四ツ角の川上昭君は後にテニス部に転校、国体で活躍した。元町には選手監督(マネージャー)だった森山龍男君がいて、後に中学野球の好采配で名をあげた。
 昭和24年、私たちが卒業したあとは、学制改革によって今市、平田にも普通学校が置かれたために転校する部員も多かった。そんななかで敢えて平田から通学、伝統を守った主将の安倉仲秋君らの健闘は特筆ものである。
 また勝透・児玉幸雄・服部晃・荒木亮君ら歴代主将のもとで、園山京(江原)・土肥一教・森山利一・原輝美・山崎雄司・白石弘志(博資)・荒木昇君らの奮闘ぶりにも拍手を贈る。
 昭和30年、16年ぶりの県下優勝で、一躍脚光を浴びたのが主将の伊藤光四郎君たちである。福岡在住の伊藤君が阪神ー西鉄で活躍したのはいまだに記憶に新しいものがあろう。 優勝投手の手銭善之君は、32年、その技量を買われて、現ダイエー監督・根元陸夫の誘いでプロ野球・近鉄に入団、現在は高校野球の解説者として知られている。同期の左のエース若月嘉郎君に、服部勝禧(立山)長島正治・祝部幸吉・中山敏夫君らに続く三原弘・徳山淳永君、さらには兵庫修吉・松尾繁樹君らの活躍ぶりも強く印象に残っている。
  ”古豪復活” のノロシとともに、全町民の関心を一挙に高めていたのが、いま地元で活躍している藤井君を中心とする藤間勲・佐野邦夫・北井宏弥君らである。昭和34年夏、大田高校とのトラブルから放棄試合に巻き込まれたのは、あまりにも有名な話である。
 翌35年、そのうっぷんを一挙に晴らしたのがキャプテン中筋和美君らである。2年生エー若月宏之君を盛り上げ、29年ぶり4度目の甲子園出場を果たした。36年には若月ー千家敬麿君のバッテリーで再度甲子園の土を踏んでいる。この栄光のバッテリーは若月が立大、千家が慶大に進み、神宮を沸かしたことで一段と輝いた。現在は大社会の常任幹事。
 この頃のレギュラーだった中筋和美・森山明(千葉県)山本芳正・大国昭君に、山崎登由(元巨人軍・東京)高畑忠善君らは、中堅どころとしての存在感が極めて高い。とくに県審判委員の中筋君はOB会のお世話から後輩の指導等大忙しの毎日である。
 大国君は出雲西高の現監督、高畑君は昭和51年・センバツに出場したときの監督といったぐあいに、誠に多士済々である。その栄光グループから、松田武君の名が消えた。
 彼も連続甲子園に足を運んだ幸運児で、長年にわたり、地元の中学野球で絶妙な采配を見せていたが、惜しいことに平成4年2月15日わずか48才の働き盛りで永眠した。
戦後復活した中学野球部の48期同期生との写真  昭和38年・6度目の甲子園組には、好投手だった監督・小田川幸一君のもとで、松尾勲・永見嘉行・石田喜代志君らが活躍をしている。
 戦前までの旧制大社中学には、県下全域から優秀な生徒が多数通学したものである。従ってそれぞれの地方から、著名な選手が続出したのもまた当然のことである。
 私と同時代に活躍した球友の中でも、平成5年1月17日、急逝した地井宮の石津昇一君をはじめ、今市の谷本忠士(出雲市議会前議長)佐藤嘉時(出雲市役所元総務部長)曽田礼三(出雲市役所元土木部長)清水博之(東京医大教授)南木研三(前神戸税関) 湯村静夫(岸和田市在住)の6君に、平田の安食仲秋(プロ野球コミッシュナー前法規部長)庄原の原静(町議会元副議長)直江の森広彬勝(現清水電機) 湖陵の福間久(県高野連審判部長)らの諸君に、学生監督の高松の吉川久夫(高知放送常務)平田の福田治夫(平田市元助役)君ら。同期の今市の安部正司君は元野球部長。思い出の多い球友達である。
 復活当時の野球部長は伊藤千代喜・秦朋正・田中治雄・松井春吉・中和夫と続く恩師たち。基金や用具集めにグラウンドの整備等々、戦後野球・復興の大きな支えであった。
 最近の大社高校は体育科ができて以来、その分布図が全県下に及んだことと、勉学一本の生徒が増えたためか、連綿として続いた野球人脈に先細りの憂えが見えてきたのはわびしいことである。 それだけに大社町が生んだ野球人たちの足跡や、根強かったファンの声援に、たまらない魅力や愛着を感じるのである。
 おしまいに、岩井振一郎さん同様、スタンドを盛り上げた人々にもスポットを当ててみたい。仮ノ宮の「チャポケン」さんこと中筋賢一さんや四本松の大国藤一さんに中山弘三さん。市場の中島喜平さん。横町の大坪昇さんや「シャモヤン」と呼ばれた吉村理さん。 四ツ角には岩井光男(藤木)さん。大鳥居には山根益右衛門さん。馬場には落合祐一郎さんや尾添公一さん。神門通りには岡本富子さんに長岡重応さん。さらに遥堪には大輝康三さん。駅前には児玉虎男さんなど、いずれも懐かしい面々である。
 現代では ”スポ少野球” の功労者・馬場の伊藤達郎さんや、私らが在籍当時からのファンでありリーダー役でもある大鳥居の小玉雄平君。常に行動を共にしている四本松の中村俊平君らが野球どころ大社の伝統を守り続けているようで、頼もしい限りである。
 それにしても、いま書き終えて思うことは、ここで取り上げた大半の人々が、すでに亡くなっておられることだ。在りし日の、あの時の、あのシーン、あのエピソードを思い起こしつつ、改めてご冥福をお祈りしてペンを置く。
 (大社高校卒業生会・近畿いなさ会会長)