第23号 秦 孝恒 (大鳥居)
阿国の墓に想う

 「ふるさとは遠きにありて思うもの」と室生犀星が詠んだように、生まれ育った大社町はすっかり遠い存在になって久しい。一昨年の夏、私の長男が大社へお参りしたさい、 出雲阿国の墓を訪ねたことからはからずも私自身、六十年ぶりに阿国が眠る太鼓原に残っていた祖先の墓参りをすることになった。
 記憶を辿ると、私の家は神光寺山、西光寺に十数基の墓があり、春秋の彼岸には榊と家紋入りの桶を持って墓参りをさせられた。 「かまどの灰まで長男のものだから、先祖の供養はお前の仕事」と祖母に言われ、うんざりしながら従った。

出雲阿国墓の写真  どういうわけか、太鼓原に一つだけ「秦」の名を刻んだ夫婦墓が残っていた。当時、住んでいた大鳥居から太鼓原まで子供の足ではかなりの道のりである。
 息をきらして山根の階段を昇ると、観光客らしい人がうちの墓にもたれて阿国の墓を見上げていたことも。
 祖霊社に電話してみた。百五十年ほど前に帰幽されているという。阿国顕彰会の手で整備されたとき、数メートルしか離れていないので、一緒にきれいにしてもらったらしい。 草一本生えておらず、申し訳ない気持ちで何とかしなければと顕彰会の副会長をされている福島裕子先生に相談。先生の教え子で四本松の片岡さん(石材店)を紹介してもらった。 八月の暑い日、福島先生にも立ち会って頂き、祖霊社の神官により御祈祷のあと、片岡石材店の方々に処理をお願いし、すでに改葬している茨木市の総持寺(西国22番札所)に合祀することができた。 それにしても何故阿国の墓のそばに一つだけ?阿国の子孫とされる中村家(鍛冶屋小路)とは遠い親類と祖母から聞いたことがある。 阿国の墓のそばにあった方が良かったのではないか。複雑な気持ちで「ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたうもの」。
 犀星が故郷金沢を詠んだ小景異情の一節が身につまされる。帰途、同行した妻、長男と共に宇迦橋から見上げたふるさとの山、弥山の美しい姿が今も焼き付いている。

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