第8号1996年 落合(おちあい) 和正(かずまさ)(彦根拘置支所長)
故郷に思いを寄せて

 「過ぎ去れば日々に疎し」「去る者は日に疎し」とかよく言われますが、昭和14年12月、杵築東(当時は西立小路、現宮西町)に生まれ、昭和33年5月に上阪するまでの19年間の行程は、脳裏に刻みこまれている。 故郷を後にした現在でも、友人は増え続ける一方、大社町にあってこそのわが人生と、その恩恵にしみじみと感じて入っている昨今です。
 小学生から中学生にかけては、兎こそ追わなかったものの、ビワ・クリ・ドングリ・クルミなどを取りに北山に登るのが日課のようなもので、時には馬場川での釣りを楽しんだものでした。
 魚釣りといえば、現在では沖アミの餌などは豊富にありますが、当時は馬場川や天神さんの池でエビを掬い、ひろげや筆投島、笹子方面まで歩いて行き、ボッカやクロアイを釣り上げた感触などというものは、 ことのほか懐かしく、いまでも彦根から隠岐の浦郷まで遠征することもあるほどです。
 出雲大社の拝殿が焼失したのは、中学1年生のときで、火柱が天を焦がし、飛び散る火の粉が町内を飛び交う様は、この世のことと思われないような凄まじさで、「本殿を焼くな」と叫びながら、 必死でバケツリレーをする町民や、消防団が水の少ない川を掘り起こし、僅かの水を手押しポンプで消化活動している姿は、言葉ではいい現わせない感動を受けたものでした。 また、中学2年生の時、野球部に入るよう勧誘されたにも拘らず「練習が辛い」との理由で、創部2、3年目のブラスバンド部に入りました。当時は部員も楽器も少なく8名ほどでしたが、 花祭りのときなどには、下手な演奏をしながら町内を練り歩いたものです。高校では剣道部に入り、とても辛い練習でしたが、そのおかげで、のちには7段位を取得、現在でも滋賀大学経済学部で健康維持のために練習を心掛けています。
 定年をあと3年少々に控え「フト顧みる」と、本当に多くの人に支えられ、助けられながら、ご指導を賜ったことなどを忘れることができません。その中でも大社町は野球の盛んな町で、高校時代の応援部の一員として県大会や中国大会の応援にいきましたが、 なにしろ部費がないために、私財を投じて参加させて頂いた四本松の故片岡哲夫氏のご援助などは、心に深く刻み込まれています。
 今、学校では週休2日制が叫ばれ、それが実現したにしても、現代の子供たちは自然に溶け込み、自然とともに学ぶことができるでしょうか。家に閉じ篭りパソコンや塾通いはかわいそうです。 ガキ大将のもとで泥んことなって遊ぶという、素朴な人間関係を作ることこそ大切ではないでしょうか。
 私は、大社町という、立派な土壌と人情に恵まれました。そのご恩返しの積りで、近畿・大社会やふるさと大社町のために貢献したいと思っています。 人と人のつながりを大事にしながら「信頼させる人」を目指したいものとつくづく思う、きょうこの頃です。

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