第29号 高田 康子 (西六国民学校同窓会)
疎開の想い出

   ”次の世を背負ふべ身ぞたくましく
      正しく伸びよ里移りて” 良子(皇后陛下)

 戦局たけなわとなりつつある昭和19年9月、西区内に残っている小学3年生から6年生までの児童は、島根県へ集団疎開をすることになりました。 私達西六国民学校は島根県でも一等地の出雲大社、しかも参道に面した一流旅館7軒(注1:4年生だけ隣村のお寺)に分宿しました。 警戒警報の発令される大阪と違い、実にのんびりとして空は澄み山あり、川あり、海あり、環境は絶好の地でこれが今日のように、臨海学校か何かに来ていたのならどんなに素晴らしかったことでしょう。
でも私達はもう大阪に帰れないかも知れないし、2度と家族に会えないかも分からない極限の状態におかれていたのです。 だから夜になって大社駅のほうから最終列車の汽笛が「ポーッ」と夜空にこだますると、「あの汽車の終点は大阪だ」と思っただけで涙がドッとあふれ、お月さんを見ると自然に涙がポロポロとこぼれてくるのです。
 1週間ぐらいは全員でワアワア泣いて大合唱になりました。だけどやはり子供ですネ。半月もするとすっかり環境にとけこみ、大社の町を我が庭のように遊び廻りました。 初めてみる日本海の荒波に感激したり、晴れた日「みせん山」という山に登ると、はるか「隠岐、対馬」の島々が箱庭のように眺められ、心が広くなるような気がしました。 戦争中のことなのでこんな田舎でも食糧不足。毎日2切れか3切れのさつまいもかメリケン粉の団子汁ばかり、お腹が空いて空いて、先生に内緒で大阪の家へ「おやつを送って/何か食べ物を送って/」と葉書を出しました。 出雲大社の境内のドングリを採って食べたり、ハミガキ粉をなめたりしました。山陰の冬は厳しく、氷のような水で洗濯をして手はしもやけではれ上り、つらい思いをしました。 時々近くの大社小学校をお借りして勉強をし、地元の女先生にナギナタを教えていただきましたが、教室にかかっていた「艱難汝を玉にす」と書いた額の前で足がしびれるぐらい正座をさせられたことは忘れません。 亡き恩師の無言の教えが今になって分かって来ました。
 楽しい想い出も一杯あります。「20年ぶりの大雪じゃ、疎開っ子に見せてやろうと思ったんじゃ」と大人達が言うぐらいの大雪が降り、私達は大喜びで裏の大社中学のグランドで雪だるまをつくり転がして帰ったり、 よそのごみ箱の木のふたを拝借して、出雲大社の前の坂をソリのようにして滑ったりしました。 昭和20年3月1日、私達6年生男女は上級学校受験の為下級生や地元の人々に送られ半年ぶりになつかしい大阪へ帰って来ました。 そして卒業式の前日、3月13日の大空襲で家も学校も一夜のうちに灰と化してしまったのです。
 大空襲
 昭和20年3月13日夜、疎開先から帰ってきて2週間が経ち、いよいよ明日は西六国民学校の卒業式、枕元によそゆきの服を並べ、普段着をきたまま床についた。 10時半頃だったろうか、ラジオが「大本営発表/敵B−29が90機編隊で熊野灘から紀伊水道へ北進中」というニュース、やがて警戒警報が発令された。 父は「いつもと違う/早く支度をしなさい/3人とも離れないよに。もしもの時は学校で会おう。」と言ってあわてて会社のほうへ出て行った。 ニュースを聞いていると阪神方面へ向かっているという。防空頭巾をかぶり身支度をした。空襲警報が発令され、しばらくすると「ドーン」という音とともにあたりが赤緑に光り夕焼けのような空になった。 表に飛び出すと「落ちた/とり菊の所だ/」と誰かが叫んでいた。松島橋西南詰めにあった料亭とり菊あたりに照明弾が落ちたらしい。 シーンと静まり返ったところへ今度はシューシュシュと焼夷弾が落ちて来た。母と姉は火たたきを持って走っていった。私はどうしようとおろおろしているとのどがイガらくカラカラになって息が苦しくなってきた。 家の中へ走って入り水道の蛇口に口をおしあてうがいをした。中庭から空をみると真っ赤である。 母と姉はもどってくると「もうあかん/早逃げよう/」と言って走り出した。伯楽橋の上まで来て我が家を見ると」まだどうもなっていない。 「まだいける/取りに行こ/あんたはここを動いたらあかんよ」といって私を置いて2人は家の方へもどった。夜空を仰ぐとまるで星がおどりながら落ちてくるように焼夷弾が降ってくる。 真上が何か暗いのでじっと見ると、米国の星条旗とB29のマークついた機体が見えた。なんとパイロットまで見えるではないか。私はびっくりして橋の上に身を伏せた。 心臓がどきどきして「もうあかん/」と思った。「さあ早く」という母の声に気がついて、西区役所のほうへ走り出した。母は一斗入りの米袋を背負い姉は箱のような物を持っていた。 もたもた走っていると、皆が逃げてきて、「あっちはもうあかん。火の海や、玉川のほうがええらしい」と言っていたが、橋の上が風と火の粉で、とても地上にいられない状態でヨロヨロしていると、 警防団らしき人が「橋の下に入りなさい」と声をかけてくださったので階段を降りて橋下に身をよせた。 焼夷弾はようしゃなくピューピューパラパラと降り、川につないであったハシケの上に落ち、真っ赤に燃えた船が火の塊となって流れてくる。 熱くて苦しくてどうにもならない。警防団のおじさんが川の中に入り私達の方めがけて川の水をバケツでかけてくださった。「水をかけて/水をかけて/」と皆口々に叫んでいる。 コンクリートの橋脚が焼け付いて、背中が熱く、今水をかけてもらってもすぐ乾きオーバーまでパリパリになる。1時間〜2時間生と死の闘いである。 隣で姉が「苦しい。死ぬ/死ぬ/」と叫んでいる。私は必死で神に祈り続けた。ドカンドカンという音がだんだん遠ざかり、火の手もしずまってきた。橋の下から見ると煙ともやで何も見えない。
 やがて東の空が白み始めた。「もう上がってもいいだろう」誰かが言ったので一人、二人と順番に地上へ出ていった。 まだ、建物や木々がくすぶり、風が吹くと火の粉が散り、カラカラになった服や髪の毛にちょっとつくとパッと燃え上がる。人を頼っておられない。自分で自分を守るよりほかにない。 皆は必死でパタパタと火の粉を払った。お稲荷さんの横の原っぱにトロッコのような鉄の車が並べてあったので私達はその中へ入った。 朝6時頃だったろうか。ドドドと雷のような音がしたあとパラパラと黒いすすけた雨が少し降り、これであたりが湿ったので、やっと火の粉から解放された。 皆はそろそろと立ち上がり、うつろな目をしてゾロゾロと歩きだした。私達ももと来た道を歩き出した。 橋の上に立つと見渡す限り何もなく、四ツ橋の電気科学館がボヤッと見え、西六国民学校の鉄筋校舎と西区役所が黒ずんで見えた。西の方は築港のほうまで見えるような気がした。 足元にダッコちゃんのように小さい真っ黒の赤ちゃんが転がっている。「マア」といって母は泣き出した。 市電が燃えて鉄枠だけがのこり、その下にスルメをあぶったような恰好で男の人が死んでいる。我が家は恐らく最後のほうで類焼したのか、まだくすぶり続け、表の大きな防火用水が2つ平然と並んでいた。
 3人はあふれ出る涙をぬぐおうともせず、学校の方へトボトボと歩いた。花園国民学校には避難者がぞくぞく詰めかけ、近所の人と再会して喜び合っていた。 約束していた父がなかなか来ないので胸さわぎがしてきた。誰かが神社の集団防空壕の中で人が一杯死んでいると話している。 キョロキョロしていると煤で真っ黒の顔をした父の姿が見えた。「お父ちゃんー」家族4人は抱き合って泣いた。罹災証明書をもらい、松島ー白髪橋ー福島を通って大阪駅へ向かった。 途中の水たまりは血の水。ビルから「バサー」と異様な音とともに窓ガラスが落ちて来る。ポーンと飛び上がるような音がする。 歩道脇の防空壕から真っ黒な顔のお母さんがよろよろと出てくる。背中の赤ちゃんはもうぐったりしていた。たった一夜で西区は死の町、道という道は修羅場と化し、足が震えて前へ進まない。 父に手を引いてもらってやっと大阪駅へたどりついた。駅は大勢の罹災者でごった返し、兵隊さんが炊き出しをしておにぎりとカンパンをくばってくれた。私達一家は満員の汽車に押し込まれて疎開先の親戚へ向かった。
 昭和57年になり新聞紙上に第一回大阪大空襲は230機が来襲、無差別に焼夷弾を落としていったというアメリカの資料が載っていた。ほんとうに恐ろしいことである。 2度とこのような経験はしたくない。子孫にもさせたくないものである。 無差別な空襲と今に知る。逃げ延びし命大切にせなおかげさまで30年ぶりの昭和50年、役員方々のご尽力により旧西六国民学校と堀江国民学校合同の卒業式をしていただき、なつかしい友と再会することができました。
(注1、西船場国民学校 簸川郡出東村 (荘原駅)保寿寺、西光寺等
    江戸堀国民学校 大原郡賀茂町 (加茂駅)観松桜、東林寺等
大阪市西区の国民学校14校は島根県に集団疎開を行った。上記のように宿泊先はお寺が多かった。

リターン