毎年同じ歴日に、同じ行事を繰り返して行なう。そんな大社町の行事を紹介します。
神 話 の 出 雲 国・大 社 町
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大社町の年中行事


 毎年同じ歴日に、同じ行事を繰り返して行う周期的伝承行事を年中行事といいます。
 大社町杵築地区は、出雲大社のおひざもとで、古いしきたりを尊重し、格式ばった行事が多く見受けられます。 ただし、季節感と農事との進行の歯車が合わない昨今、祭りとの関りが徐々に薄らぎつつあります。

第2節 春から夏へ   第3節 盆行事    第4節 秋から冬へ


第1節 正 月 行 事

一、正月の仕度

 年のあらたまる、正月を迎える準備は、家の内外の清掃から始まり、また、正月の年神様を迎えるための松迎え、 年神様にお供えする餅つき、祝棚、注連縄づくり、お節料理の準備を暮れの20日頃から始める。

 12月20日
 正月準備の始まりは、この日の早朝に行われる。出雲大社のすす払いから始まるといわれ、この日から良い日をみて、家々のすす払いを行う。

 12月28日
 恵方えほう(歳徳)は、日本では「としとく」とよんで、正月に訪れる年の神様と考えていた。年の神様のおられる方位を恵方といって、 新年の松迎えもこの方位から迎える習わしである。
 門松立と注連縄飾りを門飾りといい、暮れになると、注文を行商人がまとめて歩く。「一迎えがっしゃい(一揃え下さい)」とあらかじめ頼めば、 この日ごろに松と竹・柴と注連縄を持参する。昔は御両家(千家家・北島家)付きはおのおの拝領する。
 町方では、おおむね門松とは、竹・門柴かどしばだった。家が喪中であれば、門松は遠慮する。門松・注連縄飾りはたいてい午前中に飾り付けた。
 注連の呼称をオシメサンといい、門松と神棚にあげるのをシンペイといい、その他はおのおの大ジメ・小ジメと呼んだ。
 シンペイとは、門松一対の上部の中間に、横に竹でもって支え、その竹に注連を張る。これをシンペイと称して、 シンペイの中央に少量の米を紙で包み、ひねったものをトビ米という。 また、炭・橙を諸木・ゆずり葉に付け、藁か水引で結び、シンペイに付ける。
正月の神棚飾りの写真  シンペイの前に祝棚を天上から吊る。神にお供えするお祝いをその上に飾る。祝棚は約一週間ぐらいの長さで、正月にだけ吊り、平素は大切に保管しておく。 なお、吊り紐は太い苧で、毎年新しいものを買い求める。
 大注連・小注連は、床の間と各戸口注連飾りをし、小注連は、恵比寿さん・お釜さん・蔵の神さん・たがにいたるまで飾る。 座敷に注連縄を張りめぐらす場合は、その年の恵方の箇所を開ける。閉じると福が来ないという。荒神さん(集落の氏神)にも小注連を上げる。 注連飾りが終わると、火の悪い者はすべてヒアイ(家と家との境界)から出入りすることになる。

餅つき
 午後3時頃から餅つきを始める。この日、間に合わないで家では30日に搗く。29日は、苦餅ろいって搗くことを忌む。まず、「恵方はどっちかいな」と聞き、 主人が最初の一臼は恵方に向かって搗く。祝飾り(年神さん・神さん)・小餅・柳餅を搗き、最後の一臼は力餅をとる。
 餅が正月神への最高の供えものであるととみに、人々が年神から授かるお年玉でもある。

年神の餅
 一重一升五合ぐらい、三方にのせて床の間に飾る。祝餅の上にトビ米・蜜柑、その両端に小餅を二つのせる。 年神さんは床の間に飾り、恵比寿・ダイコクさんの掛け軸か、大国主神の変え軸を掛ける。

力 餅
 しろで蒸したモチ米を、臼の中に入れ、杵でこねた程度でそのままあげ、主人の茶碗にとり三方にのせ、神馬藻(ほんだわら)を力餅に巻き、 数の子・昆布・橙をその前に飾り、高盛りとする。理由は、出世をするように、またモチ米をこねた程度は、 完全な餅になっていないので、将来の人間完成への象徴ともみなされている。
 家によっては、神棚に上げる祝餅を二重にし、また親方筋では、餅つきは立杵で、それも三人ぐらいで交互に搗き、 手がえしは藁に水を浸して、臼の中にうつ程度で終る。

搗 祝
 餅つきがめでたく済むと、年神さんの前に輪を作って祝酒を呑み、舟歌を謡う。また小豆雑煮にお菜は数の子、煮豆をつける。

 12月31日
つもごり
 大晦日を、オオツモゴリといい、支払いが済む午後8時頃から、親戚筋に年をとったか、とらないかを聞きに行く。大蕪に味噌汁(株が増えるように)をいただき、 ノビソバ(寿命が延ぶ)を食べ、昔は夜通し起きていた。
 親方や親戚へ歳暮として、砂糖や魚・菓子などを持参して挨拶に行く。

二、大正月

 一年のはじまりで、様々な行事が行われる。

 正月元日
若水汲み
 昔は主人が早朝裃を付けて、タガに小注連を飾り、恵方にあたる井戸へ、道中舟歌(神謡)を謡いながら汲みに行く。 この若水で正月の雑煮を煮る。また早朝初日を拝むため、弥山登山をする。

屠蘇盃
 主人から順に盃を回す。終われば、主人から家内中の者へ「明けましておめでとう」と新年の挨拶をする。 門神かどかみさんにお供えするといって、雑煮を門柴に切って付ける。

おせち
 出雲大社へ参拝し、親方・親戚・懇志家へ年始回りをする。年始の挨拶は三日までとする。 朝食は小豆雑煮で、昼食はオセチといい、平皿に牛蒡・里芋・塩ぶりの煮つけ、それに大根なます。ツボ(ぐるり)に人参・ゴボウ・里芋・焼豆腐・寒大根。 味噌汁は白蕪を入れたものが食膳についた。三日までオセチをいただく。

分家の正月札
 分家からミタマさんを拝みに、本家へ年始に祝餅一重と年ダマを持参する。本家はそれを床前に飾り、返しに祝儀をつつむ。 嫁ごの里から舅姑しゅうとめがいる家には、内祝を持って挨拶にくる。

しゃぎり
 大太鼓は、組の頭分の家で保管。三十一日ごろから正月五日ごろまで組内の広場に出す。 年末に子供達に先輩が横笛の吹き方、大太鼓のはやし方を仕込む。 夜分は若連中がしゃぎり、御両家や町内を練り歩き祝儀をもらう。昼間は子供たちがはやす。吉兆が出る三日の夜が一番賑わう。
杵築シャギリの写真
杵築のシャギリ
日御碕シャギリの写真
日御碕のシャギリ
鷺浦シャギリの写真
鷺浦のシャギリ
鵜鷺シャギリの写真
鵜鷺のシャギリ
鵜鷺シャギリの写真
鵜鷺のシャギリ

 正月二日
 書初、初夢、小豆雑煮で祝い、この日いい夢を見るとその年は幸福だという。

 正月三日さんがにち
おたち
 この日の挨拶が「いいおたちでございましてね」、また「吉兆さんがおたちだがね、小豆飯をせにゃならん」などと言葉を交わす。
 昔は、吉兆は天狗の面を被った猿田彦が先頭で道案内役、服装は裃揃えた紋柄、風折烏帽子のいでたちで、榊に幣を付けたものを採り持つ。 次に番内の面を被り、神楽の衣裳をまとった番内が御幣を持って、道中の悪魔を払いながらこれに続く。 次に吉兆(高さが二丈五尺<7.5m>ぐらいで、幟の部分に歳徳神と下段に町名が刺繍され、尖梢に鉾とか扇型の飾りが取り付けられている)、どうの順序、それに囃方がつく。
 順路は、各荒神社の広場から、道中舟歌(神謡)を謡いながら出雲大社へ参拝し、御両家、組内を一軒一軒祝って歩く。 これに帳方(奉加帳係)・銭方(会計係)が付き添い祝儀・賽銭を受け取る。終わると各荒神社の吉兆格納庫へ吉兆・鼕などを納める。
 近年、番内が単独で、厄落としの男衆が衣装を借りて、青竹の先割りを引きずって、出雲大社や奥谷の三歳社へ参拝し、 厄落としをして懇志家や知人を訪問し、「悪魔ばらい、悪魔ばらい」と大声して、家々の悪魔を払うようになった。 この日、坊さんには祝餅を見せるなといって、三日の夕方早々に、祝餅をおろす。
吉兆の写真
吉兆
出雲大社拝殿前の吉兆写真
出雲大社拝殿前の吉兆
番内の写真
番内

吉兆の写真
吉兆
番内の写真
番内

 正月四日
坊主正月
 坊さんが檀家に、土産として箸一膳を持参し、初めて年始に歩く。三日までを注連の内といい、坊さんは年始を遠慮する。この日は醤油雑煮で芹・ゴボウ・海苔を入れる。

 正月五日
五日正月
 小豆雑煮をして祝う。

 正月七日
七日正月
 門松を片付け、その跡に小松を刺す。注連飾りを降ろし、荒神さんの広場でハヤス(焼くという言葉を忌む)。 この中に餅を入れ、それを食べると、一年中風邪をひかないという。七日までを「松の内」といった。

七草粥
 七日の朝、七草を入れた七草粥を神棚に供え、家内中でお粥をいただく。 六日の晩に材料を準備し、主婦がまな板の上に七草をのせ、メグリ(すりこぎ)で打ちながら、「唐土の鳥が日本の土地へ渡らぬ先に、テシオ叩いてヤァホーヤァホー」と三回唱える。

 正月十一日
帳 祝
 商売人が主で、帳面を神に供え、「今年も商売繁盛しますように」と、親戚・懇志家を呼び祝う。この日小豆雑煮をして身祝いをする。

 正月十二日
初恵比寿
 恵比寿餅の宿は、市場筋では藤間家と大村家が隔年ごとの輪番で、他の町内では頭分の家か、または恵比寿講の新頭屋が当たる。 宿では十一日の晩から小餅を用意し、午前零時を期して、しょほう(各所)から福を授かるために小餅を受けにくる。 お初穂を供えると、小餅と松の小枝を添えたものを授ける。恵比寿さんのように塩をつけて甘みなしで食べると、勝手(家運)が良くなるという。

三、トンド前後

 一月十四日から十五日にかけての正月行事で、大正月に対する小正月といわれ、農作物の豊作を祈る予祝行事が多い。 日本民族が農業を主体とする民族であるといわれる由縁でもある。

 正月十四日
ホトホト
 子供の行事で、夕方小学生が四、五人連れだって家々を訪問する。掛け声は「ホトホト」と戸口で小声で呼ぶと、家の中から「ホトホトサンカ」おいって、銭やお菓子をくれる。 たまには水を掛けられることもあった。ちなみに、ホトホトとはホギゴトという意味であって、正月神が小さい子供に変身して、村々を訪れる姿であろう。 また、この地方で物乞いをして歩く人々をホイタ・ホイトというのも、もともとはホトホトから転訛した言葉であろう。

 正月十五日
トンド
 十日ごろ組内の若連中が、トンドの芯棒になる一対の根付き竹を恵方からもらって帰る。 十四日の日に町内の古いお札を荒神さんに集め、大釜で糊を煮て、お札で張り子の恵比寿とか、猿田彦の像などを作る。 それをトンドの台車に立て、めでたい歌
 やとこせよいやな ここが大坂越さねばならぬ よいとこせよいやな
 目出度目出度の若松さまがよ 枝も栄える葉も茂る よいとこせよいやな
を謡いながら組内を練って、十五日に四本松のトンド場ではやす。また海岸部では、根付けの笹に、無数のサイハイ(四手)を付けたものを灘ではやす。

果樹責なりきぜめ
 小豆粥に餅を入れたものを神棚に供え、一人は小豆粥をどんぶりに入れ、屋敷内や畠地にあるなりしろ(果樹)の後にかがむ。 今一人は鉈を持って「なるか、ならんか」と鉈でちょっと木に傷をつけると、相手は「なります、なります」と切口」に粥を塗りつける。 今年も果樹が豊作であるように祈る。終わると家内中で小豆粥をいただく。

 正月二十日
二十日正月
 二十日ともなれば、正月の祭りごとも一段落する。十二日にうけた初恵比寿の小松をくよす(くゆらす)。 早朝、釜の下に松葉を入れ、家中をくよす。悪魔を家から払うためだという。良く家中がけむると、二十日正月のようだともいう。
 この日また二十日ヤキといい、大戸の敷居の上に、もくさで灸をすえる。これが済むと、灸をいつすえてもよいという。 正月お供えの力餅をこの日、火にあて黄な粉をつけて家内中でいただく。
 正月中にどこから来るか分からないが、「西の蔵に千俵、東の蔵に二千俵」と小さい福袋を家の中へ投げ込み祝う。祝儀や祝い餅をもらって帰る。

 旧暦一月月十五日
若布刈神事
 社伝によると、成務天皇六年正月五日の早朝、一羽の鷗が潮のしたたるなまなましい和布わかめを口にして飛んできて、神社の欄干にかけて飛び去ること三度に及んだ。 社人はこれを不思議に思って、ただちに浄水で洗って神前に供えた。これが日御碕名産として名高い和布発見の由来と伝えられる。 爾来、毎年正月五日、和布刈神事を執行して現在に至っている。この神事が終わらぬうちは、いかなることがあっても和布を刈らない旧慣がある。
 当日は、日御碕大字宇竜の権現島の熊野神社で執行されるが、それに先立ち、御籤に当たった船頭十二人が、 満船飾りを施した漁船に斎竹を立て、汀より権現島に至る約一町の海上に船橋をかけ、宮司以下神職の渡御を待つ。 宮司の渡御の時刻ともなれば、数人の若者が寒風のなかで裸になり、汀に立って渡御に従事する。 船頭の音頭によって船歌がうたわれ、数十人の船頭がこれに唱和して、 もそろもそろと船橋を引きよせ渡海する様子は、さながら優美な絵巻物を見るような趣がある。
若布刈神事の写真
若布刈神事
若布刈神事の写真
若布刈神事

 二月一日
ひひて正月
 餅を搗き、神棚にお供えしお祝いする。大社さんや荒神さんへ参る。

 二月十五日
涅槃さん
 小豆雑煮やばた餅をして祝い、お寺やお墓参りをする。

四、節分

 立春の前日を節分という。この言葉は、季節を分けることを意味し、冬から春への移行を区分する大切な日柄のことをいう。この日を境にして、 人々は冬との生活に別れを告げて、春の新しい季節に入るものと心得ていた。

 二月上旬
やくさす
 節分の早朝、主人が萱を小さく切り、真ん中を割り、柊の葉をその中に挟み、矢の形をこしらえる。 それに鰯の頭か、棘のある魚を挟み、女の髪毛を少し巻き込み、火に当てると、とても臭いにおいがする。 それを戸口や出口に刺す。悪臭と棘の痛さに鬼が恐れをなして退散する仕組み。魔除のためという。

豆撒き
 早朝主婦が大豆をホウロクに入れ、豆柴で炒る。炒った物を一升瓶に入れ、床前に飾り、 銭と家内中の年の数ほどおのおのの紙に入れ、それを一括紙包みにしたものをひねり、主人が大社さんに参拝する。 慶大の銅鳥居をくぐったころを見計らい、後ろを振り向かないで豆包を「厄除け」と呼んで背後に投げ上げる。 後を振り向くと、効果がなくなるといわれ、また、銅鳥居を包みものが越さないと、年が越せないともいわれている。
 また八足門前で、大声で「鬼は外、福は内」と唱える。豆を少し拾って持ち帰る。初雷の時いただくと、雷が落ちないという。 途中荒神さんに参り、帰宅をして家の内外に豆撒きを行う。

おせち
 お昼か晩の都合のいい時、小豆御飯でオセチをする。正月のオセチ料理と同じものを食べる。

年越し
 晩、手まわしのいい者から順次提灯をさげて、「今晩はいい年越しでございまして」、また「いい年をとりなはい」と近所歩きをする。この晩、ノビソバを食べる。 また、国扶くにふち(檀所を持った社家では、昔は恵方に当たる客を呼ぶしきたりで、都合によっては、町内の方角に当たる家人を頼み、泊まってもらい、年男として御馳走をした。

 二月上旬ー三月上旬
凧揚げ
 正月休みを利用して、手製の大凧を作る準備をする。凧紙は傘紙で、最上部に籐といって、籐で作った弓型の物を取り付ける。 これは多く桶屋からもらってきた。あのブンブンと威勢のいいうなりは籐であった。凧の紐はよまや細引きを利用した。 子供達は二月十一日の出雲市矢尾の天王祭に、ブドオ店(露店)からチョンチョ凧を買って帰る。
 凧揚げは、西風のよく吹く二月ごろから節分まで、奴凧に武者凧と様々で、季節に入ると近所から見物に来た。
 字凧は主に鶴・亀・龍の字を書き、鶴だけが赤字を使ったので、赤字凧と呼ばれた。絵凧は、加藤清正・渡辺綱・神功皇后などを描いた
 この凧も大凧になると、畳二、三畳敷ぐらいで、昔は10畳ぐらいの大凧も揚がったらしい。 男子が生まれると大凧を作るが、揚げ降ろしが手数で、朝飯前に西風をみて揚げ、戸口の柱に結んでおく。 日暮れごろ、手揃いで広場に降ろした。手伝いの者には元気づけのため、ドブロクや沢庵を出した。
 いよいよ雛節句の当日は、凧揚げの最終日で凧合戦を行った。尻尾や結びに鎌形の鋭い鉤をつけ、他の凧と糸の切り合いをする。 これで双方仲たがいをした話がある。明治三十年ごろを境に、時代の推移により、大凧揚げもなくなった。 おそらく、こうした凧揚げは人間の力だめしや健康の増進に役立った行事あろう。


問い合わせ先 近畿・大社会事務局 山崎 素文 090-9057-4089
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