神 話 の 出 雲 国・大 社 町 |
杵築地区の大土地神楽 |
![]() 神楽の起源は定かではないが、すでに、天正六年(1578)の毛利元就下し文に「出雲國杵築郷大土地中村於産荒上為国家、令執行的射神楽之事氷々不可有怠慢、若後代有左支以此一紙断可申之旨被仰下状如件」とあって、神職による主として神事の七座の舞い、「的射神楽」として見ることができる。その後、万納年間(1658~61)には社家差配の下に、地下の若者が入り舞い踊ったらしく、下って宝暦四年(1754)甲戌三月の祭事記録によると、的文之神事に続き「素人神楽同日宮下ヨリ直ニ始ル・・・」とある。また、宝暦十一年(1762)の禱家帳記録では、この年から小児を舞わせる旨が記されているが、もともと、氏子による神楽は「禱家順番帳」により、すでに宝永六年(1709)のころにはじまると伝える。素人神楽の成立としては、近世においてより早くからであったことが知られる。 ![]() 中世以来神在月廿八日であったが、昭和になり十月十五日として今に伝えている。 大土地荒神社での神楽舞は、現在毎年十月二十四日の荒神社前夜祭と二十五日の祭礼時に舞われている。 <伝承者> 昭和三十三年「大土地神楽保存会を結成、現在に至っている。 <舞い座> 記録によると、安永四年(1775)のころから、社殿の前に座を設けたと伝える。今の年毎に、方二間半、後方を一段高くして一間に二間半の囃し方と楽屋の座とし、舞い座の四隅に柱を立て、榊を飾り座をしつらう。 <神楽の慣らし> 当日の奉納に先立ち、稽古を重ね、前夜に「本慣らし」をして当日の本番を迎える。 <舞の校正と次第> 七座と神能とからなる。ほぼ次の次第で執り行われる。 入申・塩清め・悪切り・神降ろし(祝詞が入る)・恵美須舞(大人舞・子供舞)・五行(思兼が入る)・柴舞・真切目・茣蓙舞・八千矛 ![]() 四方劔・扇の舞・鈴の段・田草の舞・田草の真・天孫降臨・前素尊・後素尊・茶袋の舞。 <誉め詞 主に次の舞の途中で申す。 茣蓙舞・八乙女舞・恵美須舞・その他子供の舞。 <誉め詞の例> 「待った待った、しばらく待った。待ったりと止めましたる私めは、これより西でなし東でなし、北でもなし、南山奥の、炭焼き親爺の子であんす。この度大社参りの帰りがけ、笛や太鼓の賑わしさ。何事ならんと一足二足寄り見れば、中にいでたる舞子すがたの美しや、面白さ、何にたとえて誉めようやら、誉めるホの字も知らねども、山の木の数、草の数、浜では砂の数ほどに、ありますけれど、当世はやりのお笑いぐさをもちまして、誉めやんしょう。」 <返しの詞の例> 「ただ今のだん、お誉め下されました。御先生さまは、何処のいずくの御先生さまかは存じませねども、あのようにお誉め下され、早々舞子、囃し方一同引き連れまして、お礼にまかりでるはずのところ、お見かけ通りのことなれば、高座なれども未熟な安来節にてお礼な申し上げまする。(安来千軒名の出たところ、社日桜や十神山、十神山から沖見れば、いずくの船かは知らねども、滑車 ![]() 「いやいや炭焼き親爺が誉めたとて、あのようなご念のいった安来節などには及ばぬこと、あまり長口上は、ご見物様の妨害、ここらあたりで調子をそろえて、お手をあげさせらりょう。しからば御免こうむりましょう。」 <特 徴> 佐陀神能の影響を強く受けている。しかし、「神降ろし」・「八乙女」・「山の神」・「五行」などは、佐陀神能には見られない曲目を残している。これらは神能の影響を受ける前からの、大土地神楽が伺われる。しかも、舞い振りにおいて、力強い足踏み・鬼舞の睨みなど、古態が窺われる舞い振りが見られる。即ちかつて修験者により伝承されたと思われる「出雲神楽」の古態と見るべきであろう。加えて大人だけの舞でなく、すでに、寛政のころから小児にも舞わせ、伝承のうえからもその配意のほどが窺えるが、これおてかつての熊野信仰がもたらした修験者による「願解きの神楽」、すなわち子供から大人への再生であり、氏神に祈念する祈祷神楽とも見ることができよう。この神楽は既に近世の早い時期から素人神楽の萌芽がみられたなど、出雲里神楽の成立変遷をたどる上からも貴重な神楽である。 |
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