第17号 2005年 小村(こむら) 多一会長挨拶
小村会長写真
川上哲治さんの年賀状に思う

 『ごぶさたばかりで失礼、お元気でせうか、プロ野球も大変革で先どうなるのか、心配です』。これは川上哲治さんから頂いた年賀状のなかの添え書きである。 文内での『でせうか』は現代仮名づかいでは「でしょうか」と書くのだが我々の時代にはこう習ったといわんばがりの力強い筆運びである。 蝶々を「てふてふ」と書いた時代もあったように別に間違いではないけれど、現今なお旧かなづかいに徹しているところにいかにも川上さんらしいと、つい苦笑いしながら永いお付き合いの跡を振り返っているのに気がついた。
 現役時代の川上さんの背番号は16。 ”弾丸ライナー” を連発する巨人軍 ”不動の四番打者” だった。 ”打撃の神様”  ”不世出の大打者” などなどの最大級の賞賛を背に、ひとたびバッターボックスに入ると一度も打席をはずすようなことはなかった。 じっと身構えながらピッチャーの投球を待ち続けたものである。かたくなまでもそのスタイルを守り通したから『でせうか』は、もう本人の自然体だろうと、妙に納得してしまった。
 さて、本年はプロ野球誕生七十周年・・・。NHKが記念番組として「赤バットの川上、青バット大下」の勇姿を放映してくれたが、あのお二人の高々と舞い上がったホームランや弾丸ライナーに度肝を抜かれながら、生取材に明け暮れた時代を思い起こす。 いまでは、王・長嶋の大活躍でさえ絵物語となったのだから、生き証人冥利に尽きる思いがする。
 そんな川上さんは、大正九年生まれの満八十五歳。昭和十三年プロ入り以来、実働十九年間に最優秀選手賞三回、打撃王五回、本塁打王三回、打点王三回の栄誉に輝いており、背番号77の大監督時代には不滅の九連覇を成し遂げるなどいまもなお語り草である。
 川上さんとの付き合いのなかで最大の思い出は、昭和三十三年九月、現役引退の大特ダネとサイン入りの赤バットを頂いたことである。そもそものきっかけは、引退二年前の昭和三十一年五月三十一日、中日球場で球界初の二千本安打を達成した瞬間に遡る。 なんと場内は沸きあがるどころか拍手もまばらだった。問題は、ほとんどの人々がその一打の持つ偉大さを知らなかったからである。「これからのプロ球界はファンサービスに徹して逐一情報をアナウンスすべきだ」と早速キャンペーン記事を書いた。
 「これぞ、新聞記者よ」と水原監督。「後世に残る提言」と川上選手。以後マスコミを含めてのサービスぶりは周知の通り。本年四月二十九日、巨人軍清原和博選手が放った五百号メモリアル本塁打に、敵地広島ファンも総立ちで祝福した。
 川上哲治さんとの信頼関係は、こうして生まれ続いている。明年の賀状にはどんな言葉が綴られているのだろうか?楽しみである。(元日刊スポーツ新聞社編集局長)