第7号 1995年 小村(こむら) 多一会長挨拶
小村会長の写真
戦後50年、思いつくままに・・・


 戦後50年。節目の年にあたる。昭和20年8月15日。当時、海軍甲種飛行予科練習生。直立不動で敗戦を告げる玉音放送を聞いた。あれからはや半世紀。 思い起こすのは、その日空が真っ青だったことと、焼け跡も生々しい瓦礫のなかから雄々しく立ち上がったプロ野球のこと。いまもなお、今日強烈な印象を残す。
 仕事と趣味が両立する運動部の記者。スタートは昭和25年。プロ野球がニリーグに分裂した年。新聞や雑誌ラジオでしか知らなかったスター達。その実像が目の前にいる。遥かなる、雲の上の存在が取材相手。胸湧く、血踊る。
 度肝を抜かれたのは、川上選手の弾丸ライナー。ネット裏で観戦しながら思わず拍手。トタンに先輩記者から怒鳴られた。公平かつ冷静な男に変身する。
 絵に書いたような大下弘の華麗なフォームにウォーリー与那嶺のベースランニング。別所穀彦の剛速球に真田重蔵の物凄いドロップ。小鶴誠のゴルフスイングに青田昇のフルスイング。物干し竿の藤村冨美男に神主打法の岩本義行・・・。
 例えば、フォークボールの元祖・杉下茂に快速球の金田正一。巨漢のビクトリー・スタルヒンにブンちゃんこと西沢道夫。さらにはシュートで鳴らした長谷川良平等々。各球団にはサムライと呼ばれる豪傑が揃っていた。
 いま管理野球が叫ばれる。サイン一つで選手が手足のように動く。勝つための最良の方策という。面白みが減っていったのは事実。
 「さあさあ、もうここらで勝負を決めましょう」。和尚と呼ばれた小西得郎。それだけで選手たちはかってに動いた。名将と呼ばれた水原茂は後のブロックサインを編み出した先駆者。 分裂当時は、小西とおなじく「さぁー」の一声。千葉茂を先陣に青田、川上。南村不可止、宇野光雄らのバットが唸りを生じる。
 来る日も来る日も楽しく駆け回る。お蔭で皆様に顔を覚えて頂く。掛け替えのない財産ともなった。
 そんな生活がこの45年間続いた。本年6月。棒給生活にピリオドを打った。
 新聞生活、最後の年の7月12日。ロサンゼルス・ドジャースのエース野茂英雄が快投を演じた。現代のサムライ誕生に拍手を贈る。
 それにしても本年は、例の阪神淡路大震災にはじまる地下鉄サリン地獄にテロ事件。オウム真理教による一連の殺人行為にハイジャック等々、暗い話が多すぎた。そんな最中での快挙。 敗戦後のウサはフジヤマのトビ魚・古橋広之進とプロレスの力道山が晴らした。半世紀を経てまたまたヒーローが・・・。明るい社会復活の前兆であって欲しいと願わずにはおられない。