第30号 岩崎 靖之 |
土佐から出雲へ =「願開舟」のこと= 出雲大社の宝物殿に、手製の「小舟」が、陳列されております。小舟は「願開舟」と呼ばれ神仏への願が開きお礼をしたいが、自分で参拝、代参も頼めないときに願をこめて流す舟で、土佐国から大社稲佐の浜に漂着したと記されています。高知は5年間暮らしました、同地から郷里出雲に流れついた小舟の経路に興味を持ちました。 「出雲願開舟縁起」(中村隆資著)「講談社」は、江戸時代の中期、四国の吉野川上流から流された小舟が、1年有半(542日)の歳月ののち、無事、出雲大社にたどり着くまでの経緯が書かれておりました。 ![]() ・高知県長岡郡本山町在住の志和九郎左衛門、出雲大社の御札のお蔭で家族全員の病が快癒したので、小舟(檜製、長さ41p、幅約11p)を作り、寛永通宝一分銭、15枚の初穂料を乗せ、表に「出雲大社様土佐本山村助藤寅年男」と「日付」を刻み込み、吉野川に流す。 ・大歩危峡谷(渓谷美で有名な観光地)で小穴に入り1月滞留、雪解けによる増水で流れ出す。 河口までの間に、二度人の手により引き上げられるが周囲の説得で川に戻される、吉野川を下って出た小舟は、鳴門の渦潮にまきこまれ、鳴門海峡を北上、播磨灘に流され、明石海峡から来る満ち潮に出遭い四国海岸沿いに再び鳴門海峡へ。紀伊水道から怒涛逆巻く太平洋へ。 ・天明2年(1782年)8月〜秋 土佐湾上を半年間時計回りに還流する。その後台風の影響で豊後水道に入り、九州東海岸を漂着・離岸を繰り返しぐるぐる回る。小舟の甲板は陽に焼け、貝殻や海草が付着、重いものを着けて海上を漂う。 ・天明3年(1783年)4月〜 14日豊後国(大分県)臼杵湾の無人島、地無垢島の浜に漂着。17日漁師が発見。小舟の文字と乗せてある15文の銭で願開舟と判断、大事に津久見湾筒井浦に持ち帰り、網元・村長(伊平)に相談。網元は自前の小型廻船「豊祥丸」で、周防・長嶋(山口県上関)まで行き、北前船に頼むことに決定。三日間かけて小舟と銭はきれいに洗われ元通りの姿に戻り、新しいさらしが巻かれ神への使者の白装束姿に変わる。 ・天明3年(1783年)4月20日〜 筒井浦を出発。国東半島、伊予灘の八島を通り上関に到着。伊平は、取引先上島屋番頭(十左衛門)と二人揃って北前船で西へ向かう千石船を探す。蝦夷松前に向かう千石船「神幸丸」船頭(喜藤次)に会い今手元に願開舟を預かっていることを話し、出雲に届けて欲しいと懇願する。 喜藤次は「この船を選んで下され、有難いこと。」と快諾。三田尻、下関、仙崎港に停泊、4月26日浜田発、到着港を「宇龍」にするか「鷺浦」か船頭は迷う。大社稲佐の浜に近い「宇龍」に決める。 ・天明3年(1783年)4月27日 船頭は午前1時起床願開舟を風呂敷に包み、背中に負い提灯を手に二人の船員を従え山を歩く。午前3時頃稲佐の浜に到着。地元の人が発見しやすい場所に小舟が流れ着いたように置く。小舟は、その日発見され杵築・中村の住民が大社に届ける。受けた大社では、早速、神前に供えられ、時の第76代國造・千家俊秀様自らが舟主の篤き心を愛でられ、その由を大国主命に奉申される。 奉納後ただちに事情調査が始まり発願の主が特定され、この話は人馬の駆ける速さで土佐一国に広まり、続いて東日本まで広まったとのこと。「小舟」の伝達に携わった人は、誰一人当事者であることを名乗り出た者はなし。 人々の厚い信仰心と善意のリレーにより土佐の住人の願いはかなえられたこと。その舟は「願開舟」と呼ばれ、豊臣秀頼奉納の太刀などの国宝・重要文化財の扱いを受けていることを知り、改めて先人の思い遣りに感銘を受けました。 (了) |