第25号  松原 信二 (赤塚)
私が過ごした大社とインドの風景

 私は、昭和25年に北荒木で生まれ小学1年生までをその地で、2年生以降は赤塚の地で過ごしました。生家は荒木小学校の真西にあって家の前の道路は穴ボコだらけで、 車と言えばオート三輪と鼻の突き出たボンネットバスや自転車くらいなもの、希に車が通ると家が揺れたものでした。 道路沿いの小川にはメダカが群れ、鮒も見ることができました(思えば良き時代でした)。大社駅に蒸気機関車を見に行くのが楽しみでいつも画用紙に蒸気機関車を画いていました。 駅に列車が到着すると幟を持った先導者に連れられた出雲大社参拝の観光客の長蛇の列が続き活気があったものです。 夏休み直後にあった大梶祭りの時には仮設の舞台が作られ、漫才他の演芸が催されとても賑やかだったのを懐かしく思い出します。 小学校2年時に赤塚へ移ったのですが、兄が小学校六年生でありそのまま荒木小学校に通ったこともあって、私も転校せずに卒業まで荒木小学校に通いました。 しかし、中学から大社小学校の人達と合流することになるので早くから大社小学校に転校した方が良かったのではないかと後悔することになったのも懐かしい想い出です。
 会社からインドへの出張を拝命し、昭和64年2月〜平成元年1月まではアッサム州に、平成2年〜6年まではウッタール・ブラデッシュ州にと2度に渡って滞在しました。
 2度目のウッタール・ブラデッシュ州はインドの中央部にあり、ガンジス川の沐浴で有名なバラナシの近く・・・近くと言っても車で5時間もかかるところに滞在していたのですが、 この道中と言えばアッサム州も同様ですが、道路は穴ボコだらけで車にクッションが無いこともあって暫くはお尻が麻痺した状態になりました。
 アッサム州は、第二次世界大戦で激戦地になったインパール(バングラデッシュとネパールの間で東はミャンマー)に近く、アッサム茶が有名ですが、 石油を産出することからかインドからの独立志向が強く(私が滞在する数年前にインデラ・ガンジー首相がこの地で暗殺されました)政情不安定で、現在では外務省から渡航危険地域に指定されています。 井土が手押しポンプであったこと、川に架かっている橋には欄干がなかったこと、生活の熱源は主として薪であったこと、停電が多かったこと、運動会、夏祭り、秋祭り等が地域ぐるみで催されていたこと、 田植えが(細長いインデカ米)が手植えで行われていたこと、田の耕作は牛で行われていたこと等々・・・今の日本では殆ど見かけなくなりましたが、それは正に私が生まれて育った荒木の原風景そのものでありとても懐かしく癒されたものです。
 インドの人の日本人に対する感情はとてもよく、自分たちは貧しいのに私達日本人(最大二人でしたが)には絶えず気配ってくれ、いろいろ助けて貰えて気持ちよく過ごすことができました。
 昭和46年にふるさと大社を出て以来、早40年。大社の人も風景も大きく変わりました。父母の墓の近くにブドウ畑があるのですが、 持ち主の方が高齢になられたからでしょうか・・・放置されたまま荒れ果てており墓参りで帰省する度に寂しいやら、なにか胸が痛くなります。

リターン