第27号 酒井 良孝 (上中村)
私の中の出雲大社

 私は昭和24年4月大社町に生まれ、今年66歳となりました。出雲大社(いずもおおやしろ)の氏子ではなく、出雲大社に縁のある紫雲山乗光寺の門徒として育ちました。 大社町で暮らしていた時にはあまり意識をしていなかったのですが、社会に出てからは出雲大社を強く意識するようになりました。 今では、今日の私があるのもひとつには出雲大社のお蔭もあったのではと思っています。何処の生まれという問いに「出雲大社のお膝元」と言えば、すぐに理解して貰え、羨ましがられることもありました。 初対面でも公私問わず話題が膨らみ、それがどれだけ役に立ったかと感謝せずにはおれません。そして、それはいつの間にか私の誇りとなり、自信を持って相手と接することができるようになりました。
 私は、旅行やハイキングが好きで、暇を見つけてはリュックを背負い各地を歩きます。出雲大社の分祠が全国各地にあることは、ある程度は知っていましたが、訪れる先で、出雲大社に縁のあるところが如何に多いか驚かされます。 沖縄で出雲大社の文字を見つけた時は、驚きを通り越し早々に訪れ、神官さんと雑談を交わしました。また、茨木県笠間にある西念寺(親鸞聖人が国宝の教行信証を書き上げたお寺といわれている)を訪ねたとき、近くに出雲大社があることに気づきました。 1000人は収容できる拝殿に、本家に負けぬ大きな注連縄や狛犬ならぬ大きな大国主命にはビックリしました。まだ、造成中で計画図を見るとこれが完成すれば「西の出雲大社」に対し「東の笠間」となるのではないか。 大国主命と一緒に国造りをした少彦名命の縁のある「陸奥の国」だから、これだけ立派な分祠社ができるかなと勝手に想像をしました。
 もっと驚く体験があります。奈良県の最南端に、村として全国一面積の広い十津川村があります。紀伊半島の中央に位置し、村のほとんどが山林でまさに陸の孤島というべきところです。 この十津川村の玉置山(標高1000m)の山頂近くにある熊野三山の「奥の院、玉置神社」を訪れた時、出雲大社の社が目に入り何故こんな山奥にと驚きました。 これを宮司さんに訊ねると、私にとって衝撃的な話が耳に入ってきました。明治18年に十津川村民全てが出雲大社の氏子になったというのです。そして、この村には現在でもお寺がひとつもなく、葬式は各郷の神社(祖霊社)で行っているとのこと。 紙面の関係で経緯は省きますが、この事実に出逢えたことで、改めて出雲大社の影響力は日本の隅々まで及んでいることを再認識させられました。
 余談をひとつ、兵庫県の「たつの市」といえば淡口醤油が有名ですが、ここを歩いた時にも出雲大社の縁に出遭いました。龍野公園内にある野見宿禰神社の境内に野見宿禰の塚がありました。野見宿禰は出雲大社に縁のあることは知っていましたが、その塚の門扉に千家家の家紋が刻まれているのにも驚かされました。 野見宿禰は相撲の神様として、また「はにわ」を提案したことが知られていますが、その人の墓がここにあるとは知りませんでした。野見宿禰が出雲に帰る途中、この地で亡くなった。出雲から人が来て、川から墓石にする石を運ぶその姿「野に立つ人々」が、「たつの」になったといういわれが書いてありました。
 これからも元気な内は、各地を歩きたいと考えています。そして、訪れる先には、私の未だ知らない出雲大社の世界が待っていることでしょう。歳を取れば取るほど知らない世界が増えて、先人が残した「死ぬまで勉強」という言葉を実感しています。 あなたの街角でリュックを背負った私を見かけたら、是非声を掛けてください。出雲大社談義に花を咲かせましょう。

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