近畿・大社会会長 千家(せんげ) 敬麿(よしまろ) (宮内)
若月宏之君を偲んで

 宮内町内に昭和18年生まれの子が千家の興ちゃん、平岡の勝ちゃん、竹並の清さん、若月の宏っちゃん(ほっちゃんと呼んでいた)大国の文ちゃん、私と6人もいた。 それに前後1、2年の子が約10名の総勢16人くらい。まとめ役?ガキ大将は3つ上の川上寛祐ちゃんで、ほとんど毎日、外苑や祖霊社、神苑の空き地を使って三角野球か相撲で泥だらけになって遊んでいた。 宮内ではないけれど、近所で同じ歳の山崎登由(元巨人)君もガキ仲間に入ることがあったなぁ。
 若月家は長男の範亮さんを筆頭に兄弟5人(宏之君は一番下)。皆野球が大好きで上手かった。三男の義郎さんは、高校-社会人で左投げの投手で鳴らした。 範亮さんは、当時の「月刊野球界」という雑誌を持ってしょっちゅう私の家に来て話し込み、私が野球を好きになったのも範亮さんとガキ大将の寛祐ちゃんらの影響が大きい。宏之君は余りしゃべらないけど野球は小さい頃から器用で足も速かった。
 大社中学では無条件に野球部に入り、彼はずーと遊撃手で私はどういう訳か始めから捕手志望だった。3年間やり続けたのが山崎、祝部豊久君、若月、千家に、荒木小からの高畑忠善君と松田武君の6名。県大会優勝で中学の有終の美を飾った。
 大社高校に入り、6名はそのまま野球部に。一年の夏は例の高校野球歴史に残る悲運?のいまだに憤懣やり方ない『放棄試合』を宣告され、さらに半年の対外試合禁止という悔しく憎い事件があった。 あの試合は、若月君は一年生でただ一人のレギュラーとして遊撃手でフル出場した。北井善衛監督は、事件後の辞任から復帰された翌年4月、投手だった山崎君を三塁手に、若月君を投手にコンバートされた。卒業後、山崎君はプロの巨人に入団。 足が速くプロ野球界の名遊撃手の広瀬に例え、 ”山陰の広瀬二世” がキャッチフレーズだった。若月君は後述するが、立教大学で東京六大学神宮の優勝投手になるのだから、コンバートは北井監督の眼力であり、快挙だ。 私はキャッチャーだからよく分かるが、コンバート直後の若月投手はスピードもないしコントロールも良くなく、投手といえるような投げ方ではなかった。すると、北井監督は突然、若月投手をある社会人のチームに1週間預けるという、またまた快挙をやってのけた。 というのも、帰ってきた若月君は1週間前とはまるで別人の様な切れのいいボールを投げ、フォームもきれいに変身した本物の「ピッチャー」になっていたからだ。 余り曲がらなかったカーブも練習を重ねているうちに大きく曲がって落ちるようになり、横の曲がる今で言うスライダー系と二種類になった。それに持ち味だったシュートは余り練習しなくても右バッターに食い込む素晴らしい球になった。 やや専門的になるが左足の上げ方(腰の入れ方、体重移動)、左足のステップ、左手の上げ方を大きく変えることによって、もともとあった右腕のしなりという彼の良さが活かせ、ボールそのものに勢いがでた。
 そして2年の夏、それまでの対外試合停止で毎日毎日練習に明け暮れるしかなかったうっ憤を晴らすかのような快進撃。県予選、西中国大会を勝ち進み、昭和6年以来、実に29年ぶり、4度目の甲子園出場(西中国代表)を決めた。もちろんエース若月は6試合全て完投での勝利だった。
 放棄試合から一年、悲願の甲子園出場に大社の町は沸きに沸いた。球場での応援もすごかったが、何といっても大社駅頭での熱烈な歓迎に優勝パレード、そして勢溜での祝勝会は町中の人が出てきたかのような大騒ぎ。選手も嬉しさで大感動だった。
 甲子園はまさに夢のようだった。残念ながら一回戦で1,2を争う好投手を擁する静岡高校に1安打完封の0対2で敗れた。 静岡高校はそのあとも勝ち進んで準優勝。今思うとやはり29年ぶりの甲子園は地に足が付かず落ち着きがなかったが、そんな中でも若月君はりっぱに息づまる投手戦を繰り広げた。
 いよいよ最終年の新チームでは私が主将に選ばれ、さあ来年に向かってという秋、若月、山崎、それに私と、立て続けにけがや故障で翌夏近くまでチームはそろわなかった。 しかし、皆が「これじゃいかん、何とかしないといけない」という気持ちで団結、正に猛練習に取り組んだ。倒れた選手にはバケツで水をかけ立ち上がらせて練習を続けるほどだった。 皆、必死だった。若月君は2年生まではどちらかと言えばコントロールの良さを活かした軟投派だったが、一日5、6百球という監督の指示で鍛え、いつの間にか ”速球派” になっていた。
 県予選一回戦の津和野戦は記憶に残る試合。6回表まで6対0とリードしたがその裏一挙に5点を取られ、8回に追いつかれた。延長13回でやっと勝利したが、若月投手が1イニングで5点取られたのは最初で最後のこと。 リードを過信し単調になりすぎた私にも問題があり、力んでしまったという若月君と二人で試合後に猛省した。暑い中での4時間の死闘だったが、その後の若槻-千家のベッテリーには大変良い教訓となった試合であった。 三回戦の因縁の大田高校には1対3を9回裏逆転サヨナラ勝ち!先輩達の無念を晴らした。準決勝の浜田高校との対戦は忘れることの出来ない試合。前夜から若月君は39度の熱を出し(後で聞くと扁桃腺炎)、全員心配する中で気丈にマウンドに上がったが、実は高校時代で一番早いボールを投げた。 いつもの精密なコントロールはなかったが、高めに伸びたストレートは、今のスピードガンで145キロくらいのスピードは出ていたと思う。日頃の練習の賜物とはいえ、ベンチに帰ると氷で頭を冷やしながらの力投ぶりは彼の強い精神力を見せつけるものだった。
 西中国大会では下関商、安来を破って二年連続5度目の甲子園出場を決めた。両試合とも1点差の勝利にもかからわず、全く負ける気がしない不思議な感覚の中での2試合だった。 実際に優勝インタビューで嬉しそうな顔もコメントもせず、勝って当然の雰囲気でいたので、周りには生意気だ、と多分思われていたに違いない。チーム全員に負ける訳がないという感覚をもたらしたのは、エース若月君のあの浜田戦の熱投がチームに与えたものであったと思い起こしている。 予選前からの神様祈願、熱烈な応援、帰った時の大社は町を挙げての「のぼせもん」状態で、勢溜での祝勝会は「外苑の松林にこだまする町民の拍手と万歳の声が夏空にどよめいた」と表現された。
 今度こそ甲子園優勝を!と、応援態勢も盛り上がり、甲子園では大変な声援をいただいたものだった。初戦は札幌商業に完勝。2回戦で強豪中の強豪、法政二高(前年の優勝校で春の選抜でも優勝し3連覇なるかと注目された。後に巨人の9連覇に貢献した柴田エース)とぶつかり、善戦むなしく敗れた。 若月投手は予選から甲子園2試合を含め8試合全てに完投の大車輪の活躍だった。ちなみに9人全員が3年生で、予選から法政二高に負けるまで一人の交代も守備位置の変更もなかったものの、同じ打順は一度もなしというのは、高校球史の記録にもない?のではと思う。 余談だが、予選から全試合、彼は私の出すサインに一度も首を振らなかった。つまり私の言う通りに投げたのだ。サインは直球・カーブ・シュートの3種類だけ。私の構えるミットの位置と阿吽の呼吸で2種類のカーブやコース、高低を投げ分け、約1000球中ただの一度もサイン違いや考えの違いはなかった。 否、正直に言うと一球だけ、ただ一球だけ、法政二高の内田に2ストライク1ボールから2点先制の二塁打を打たれたインコース低めのドロップだけは私との考え違いだった。昨年夏、彼の病室で「あの時何故スライダー系のカーブを投げなかったのか」と問い詰めて苦笑いされた。54年後の二人だけの分かる会話だった。
 高校を卒業して若月君と違う道と思いきや、彼は立教大学へ、私は慶應大学へと進み、東京六大学の舞台で野球を続けた。下級生の頃は何度か神宮球場のスタンドで試合観戦し、「お互い早くレギュラーになってグラウンドで」と誓い合った。 彼は私より一足早く神宮のマウンドに立って活躍するようになり、その後一年間登録抹消したため、私が卒業した後の昭和41年春の東京六大学リーグ戦で優勝投手になるという栄光を手に入れるのである。 あの長嶋・杉浦・・・を輩出した立教大学の9度目の優勝を飾った際のエースだから正に歴史に残る投手だし、東京六大学通算16勝も長く語られることだろう。 ちなみに私との対戦は40年春の一度だけ、それも一球だけで、正捕手争いをしていた私に打たせてくれるかのような真ん中のストレート。あわやホームランかの左中間の会心の大飛球で、仲良く引き分けだったと思っている。
 さらに、社会人でも彼は大丸、私はカネカと同じ関西のチームだった。時々練習試合で顔を合わせたが、その後の勤務もお互いに関西で、随分長い付き合いだった。甲子園、神宮と最高の檜舞台でプレーできたことは二人にとってとても幸せな人生だった。目をつむれば今でも、大声援が聞こえてくる。
 彼が晩年「近畿・大社会」に強く情熱を燃やし懸命に取り組んだのは、「ずっと応援してくださった大社の皆様に恩返しをしなければ」と思ったからに違いない。何としても彼の気持ち、意志を受け継いで頑張らねばならない!私はそのような気持ちに駆られた。
 高校時代のチームメイトの9人の内、5人もが既に天国に行ってしまった。松田武君、山崎登由君、飯塚孝君、祝部豊久君とのお別れの場で、「彼らの分も生きなきゃな」と言い合ってきたのに、何でこんなに早く行ってしまったんだよ。 キャッチャーがいないと野球ができないだろう。しばらくは5人で三角ベースをやってくれ、9人みんなそろったらもう一度しびれるような野球を楽しもうぜ、ほっちゃんよ待っててくれ。

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