昭和の大社町風景 |
明治・大正時代から今日までの貴重な町内の写真を数多く掲載しています。古い写真をお持ちの方はご一報ください。
昭和元年
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1926年
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〇大社・日御碕定期観光船
昭和初年より、稲佐の浜から日御碕の間を一日3往復航行し、観光の一翼をになった。航行時間は片道40分かかった。また、杵築ー河下線、臨時線として杵築ー久手線もありにぎわった。 〇北井鉄工所創立、焼玉エンジン、鋳物製造はじめる。 〇この頃、銅鳥居前で写真出張撮影はじまる。 〇中筋賢一、大社日御碕間の定期観光船(八幡丸10トン)を建造し観光に協力する。 |
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昭和
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くじら島に着岸する稲佐浜〜日御碕の定期船
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昭和2年
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1927年
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〇阿須技神社遷宮、古式によって、村中を御神興で渡御が行われた。
○出雲阿国の墓が杵築協会によって整備され完工する。 〇大社町駅通りに本町郵便局が開局する。 〇大社教祖霊社竣工す。 〇大社高等小学校の高等科は、男女別に収容することになり男児を西校に女児を東校に収容。 〇島崎藤村来町し出雲大社参拝する。 〇大社町人口10,299名(男5,111、女5,188)戸数2,096戸。 〇大正時代中絶していた盆踊り復活。田中豊香の指導で乱れた踊りを統一し、現在の荒茅、荒木盆踊りの基礎となる。 〇大社町内でシヤギリ太鼓が盛んに行われる。 〇昭和初年まで、旧暦の1月14日の仮の宮一区の上と下で、「おしこ」(櫓による船の競争)が行われた。 |
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昭和初期
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〇昭和初期の吉兆。この吉兆幟には越峠の町名が見える。
吉兆幟の神名は荒神・歳徳神が特に多い。歳徳神は正月の年神であり、荒神は出雲の古代神である。 荒神は、本来は水の神で、同時に大地の神で、つまり出雲の大神にほかならない。 このことから、新年早々の祭り、また、格別の賑わいの祭事には年神と同時に、荒神すなわち出雲の御祖を奉祭したとみえる。 現在、吉兆幟は日御碕を含め23の幟が所蔵されている。 |
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昭和初期
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昭和初期
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〇鷺浦の八千代橋。
昭和初期の八千代橋で、この川のすぐ手前に鷺浦港がある。 |
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昭和3年
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1928年
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〇杵築協会長本田常吉「歌舞伎元祖出雲お国の伝」出版。
〇遥堪村役場を新築移転。 〇鷺浦にラジオが入る。また、敬老会がはじめて行われ、婦人会を同時創立。 |
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昭和4年
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1929年
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〇村道日御碕宇龍線開通。
〇大社神苑内、浄ノ池、八雲橋命名。 〇日御碕婦人会を設く。 〇野口雨情、出雲大社に参拝し竹野ヤ旅館に宿泊、大社小唄を作詩する。 〇大社町内でもラジオがきかれるようになる。 |
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昭和4年頃
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1929年
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〇川方桃山の花見。
三月の花盛りには、川方の桃山は家族連れの花見客でにぎわった。写真は、昭和四年頃の花見風景。 |
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昭和5年
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1930年
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〇一畑電鉄大社神門駅開業。写真は開通当日の大社神門駅。
○勢溜の大鳥居竣工する。(隠岐布施村、材を調達) 〇加藤弁三郎、工学博士の学位を受ける。 〇若槻礼次郎夫妻、小土地にある生家奥村氏の墓所に墓参。(小土地にあった藩の番所役人であった関係で当地に埋葬) 〇弥山登山女人禁制の掟、解禁となる。中腹の巨岩に弁天姫を祀る祠が出現し、6年春より、登山入口の子安観音附近から、山頂参道に至るまで茶店、おもちゃ店などが立ち並び、はやり神として一時大変な賑わいとなる。 〇出雲大社外苑の観桜始まる。 〇杵築協会、新作「大社神謡」を募集し、入選五首を決定発表す。 |
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昭和5年
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1930年
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〇勢溜の大鳥居建築用材の木挽き。
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昭和5年頃
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1930年
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〇昭和5年頃の日御碕街道
この道は、日御碕の参拝道として大正6年(1917年)に工事を始め、大正12年(1923年)に完成した。まだ築港の建設は始まっておらず、行く手に笹子が見える。 |
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昭和6年
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1931年
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〇日御碕街道の小床茶屋前。ハイカラな鳶合羽や和傘、女性はショール、男性はステッキが流行した。
〇県立大社中学校、寄宿舎食堂を移築し七生会館とする。 〇安部宙之介編「出雲民謡集」を大社町潮騒発行所より出版。 |
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昭和7年
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1932年
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〇出雲大社教50年奉祝祭、昭和7年、出雲大社教の立教50年を記念して奉祝祭が行われた。
この写真はその時の神門通りに風景である。
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昭和7年
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1932年
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〇昭和7年にできた鑓ヶ先橋。
〇水谷八重子、出雲お国墓に参詣。荒廃せるをなげき松竹社長大谷を説き墓所修復をすすめる。阿国塔建設の原因となる。 〇神門通り路面アスファルト舗装完成。 〇大社町人口9,284名(男4,401、女4,883)戸数2,062戸。 |
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昭和8年
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1933年
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〇大社漁港修築工事。
大社漁港ができるまでは、主として、赤塚浜から弁天島に至る浜一面に漁船を船揚げしていたが、昭和になり、水産業の発達に伴って発動機船も激増し、 いよいよ漁船の収容場所もなくなったため、港の建設の声が高まり、ついに、昭和8年より五カ年計画で漁港の建設工事が始まった。 1.大社漁港の石落とし作業 2.資材の運搬作業 3.完成間近の大社漁港 〇豪雨により町内所々に浸水、崖崩れあり、鷺浦では八千代川氾濫し八千代橋流出す。 〇鷺トンネル開通する。 〇ぶどう栽培にデラウエア種を導入する。 〇安部宙之介著詩集「天の雲」、大社「木犀詩社」より出版。 |
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昭和9年
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1934年
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〇日御碕宇竜福性寺の大ソテツが天然記念物に指定される。
〇阿国塔建設地、奉納山所有の千家男爵より大社町へ提供。 〇大土地神楽、東京日比谷音楽堂及び東京大森神社にて上演す。 〇鵜鷺村面坂トンネル開通。 |
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昭和10年
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1935年
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〇神苑竣工祭のにぎわい。神門通りでの大社芸妓連によるにぎわい。
〇「日の岬燈台」を「出雲日御碕灯台」と改称。 〇大社〜大阪間の急行列車運転開始。 〇北越峠を御宮通と改名。千家尊統の命名による。 〇日御碕神社、家光公寄進の大鳥居を社頭に移転の件、県知事より認可。 〇須谷栄一(大鳥居)、神楽面の制作をはじめる。 |
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昭和10年頃
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1935年
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〇旧拝殿前の吉兆幟。
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昭和11年
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1936年
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〇県立大社高等実業学校を大社高等家政学校と改称。
〇出雲阿国塔6月建立、7月除幕式。 〇大社教本院内に大国旗掲揚塔(高さ約47メートル)建設。(大社教此花区健児隊、健女隊奉納) 〇稲佐浜の弁財天宮社遷宮。宮、鳥居、架橋、いずれも山根久三郎(宇龍)寄附奉納による。 〇県立大社中学卒の福田時雄、吉岡隆徳(一時在校)両名、第11回オリピック百メートル走に出場。 |
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昭和12年
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1937年
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〇土橋になった一文橋。
昭和12年に土橋として完成した時の写真。一文橋が最初に架けられたのは、延宝5年(1677年)と言われ、 石見方面から出雲大社への参詣道として利用された。一文橋という名前は、橋を通る通行料として、一文銭を支払ったことからこう呼ばれた。 〇大社港西防波堤灯台点灯。 〇北井正雄、(大社町出身プロ野球球団阪急ブレーブス所属)没す。 〇鵜鷺より猪目に通ずる猪目林道成る。 〇昭和12年現在、大社旅館連盟加盟旅館。いなばや、本須谷、とらや、藤間、大島屋、竹野屋、高間、八幡屋、ますや、増吉屋、藤原屋、明月、日の出館、森亀。 |
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昭和12年頃
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1937年
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〇高瀬川。
大梶七兵衛が開削した川で、農業用水と荒木川方の松江藩役所への藩米を運ぶ重要な役割を果たし、川船の往来でにぎわった。 |
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昭和13年
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1938年
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〇第一期工事の完成した大社漁港。 〇大社港沖防波堤灯台点灯。 〇大社国学館創立。当初、教室は一年生は大社教祖霊社事務所離れ、二年生は千家宮司宅の西の長屋。 〇県立大社中学校創立40周年記念式典挙行。 〇大鳥居、越峠、御宮通、宮内の一部の路面コンクリート舗装。 |
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昭和10年代
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〇堀川の川浚い。
堀川では昭和30年頃までは、シジミやカラス貝がたくさん捕れた。 〇小土地は、今は馬場、仮の宮に次ぐ大部落であるため、昭和16、17年頃より宛字の古を用うる様になったが、役場の台帳には変更する事ができず、そのまま小土地となっている。 |
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昭和14年
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1939年
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〇大社観光自動車会社、一畑電鉄と合併し、一畑バス大社営業所設置。
〇弥山山火事で広範囲に焼失。鷺浦で初めて大八車で石膏を運ぶ。 |
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昭和15年
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1940年
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〇県立杵築中学講堂内部。中央に御真影(天皇、皇后両殿下の写真)と教育勅語を納めた奉安殿がある。
〇大社国学館新校舎落成。大社修練道場竣工す。 〇皇紀二千六百年記念行事行なわる。 〇杉谷産業中山鉱山再鉱。 |
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昭和16年
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1941年
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〇3月、大社港外で遭難した石炭運搬第一加福丸救助に向かった新幸丸が沈没し六名殉職する。9月、六士の殉難碑を大社港岸に建立。
〇松江銀行は米子銀行と合併し山陰合同銀行と改称された。 〇県立大社中学、学校報国隊編成。 〇旧杵築村役場庁舎を神門通りへ移転、改築して消防会館を建築し、大東亜戦下防空の本拠とす。 〇山陰ベニヤ工場創立。 |
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昭和17年
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1942年
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〇大社町内の造船業者(5戸)合同して大社合同造船所を組織。
〇大社・荒木米穀小組合発足。 〇高尾山に海軍の監視哨を設置。日御碕に陸軍部隊駐屯。 |
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昭和18年
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1943年
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〇県立大社中学校、校令改正で四年制となる。
〇大社町農業会、荒木村農業会、遥堪村農業会それぞれ創立。 〇鷺浦にはじめて自転車が入る。 〇大社町漁業会再発足。 |
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昭和19年
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1944年
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〇学童集団疎開により、大阪市本田国民学校児童300名が、誓願寺、神光寺、願立寺、法海寺、乗光寺に分宿、20年2月まで疎開。
〇大阪市西六国民学校、後交代して福国民学校児童、大和屋、加善、竹野屋、明月、高間の各旅館に日光寺をそれぞれ寮として終戦まで滞在す 〇北島英孝国造参内、今上陛下に拝謁を賜りて天盃を拝領す。 |
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昭和20年
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1945年
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〇遥堪荘巌寺、陸軍兵の失火により全焼す。
〇海岸一帯で自家用製塩盛んに行なわる。 〇大社幼稚園、大社町立として移管。大社国学館を借用して運営。 〇太平洋戦死者(大社町他4村)693柱。 |
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昭和21年
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1946年
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〇森田善十(市場出身)読売新聞社政治部次長に就任。
〇県立大社中学校、楠公祠を撤去、野球部を復興。 〇出雲大社、宗教法人令による宗教法人となる。神道大社教を「出雲大社教」と改称する。 〇大地震あり、倒壊家屋94軒(全壊22、半壊72)死者3名。 〇院内(本町)南端の元山陰銀行の建物にて社交ダンスホール開場。 〇鑓ヶ崎地区でチューリップ栽培はじまる、荒木村では養豚業免許を受けて活動がはじまる。 〇洋裁の関心が高まり、多数の洋裁塾が開塾、黒崎洋裁研究所(真名井)こまどり(大鳥居)福代洋塾(馬場)大社すみれ服装学院(神門)大社女子専門学院(御宮通)大谷洋裁塾(馬場)など。 〇大梶踊保存会誕生。 |
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昭和22年
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1947年
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〇昭和天皇は、4回大社においでになっている。大正6年皇太子の時と天皇になられてからの昭和22年に、また昭和40年には天皇・皇后両陛下がお揃いで、
そして、くにびき国体の昭和47年が最後のご訪問であった。
〇大社町婦人会設立。 〇村立鵜鷺中学校、村立日御碕中学校、それぞれ村立小学校校舎内に併置して発足。 〇大社町ではじめての婦人議員(梅田マサ子)誕生。 〇大社ブドウはじめて県外出荷。 |
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昭和23年頃
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1948年
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〇出雲大社銅鳥居前参道の昭和の遷宮の賑わい。
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昭和23年
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1948年
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〇農業協同組合がそれぞれ日御碕、遥堪村、大社町、荒木村に設立される。また、大社町漁業協同組合も設立。
〇詩人千家元麿、東京長崎で没す。(61)遺骨は妻千代子の分骨と共に郷里大社町の松現寺山の千家家累代の墓所に埋葬さる。墓碑名は武者小路実篤の筆になる。 〇大社国学館、第八期卒業生を終わりとし閉校、校舎は大社町に寄附。 〇県立大社高等学校卒業生会を「いなさ会」と改称。 〇戦時中、中絶していた盆踊りの復活をと、大社町盆踊り保存会が結成さる。 |
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昭和24年
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1949年
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〇うまおい(荷駄)。杵築から峠を越えた鷺浦・鵜峠地区・猪目へは主に馬を利用した。
県道が開通しトラック輸送が可能になった昭和24年頃を境に廃れていった。
〇大社町幼稚園、四ツ角より元大社町国学館校舎に移転。 〇学制改革により、第一、第二高等学校を統合し、島根県立大社高等学校となる。これにより、出雲、平田地区の生徒の大多数は、出雲高校、平田高校に転ず。 〇4月、新制大社町立中学校は旧第二高校校舎に移転。9月、校舎増築して大社町、荒木村、遥堪村組合立中学校となる。 〇大社外苑において大相撲興行、横綱照国、羽黒山、東富士、前田山出雲大社参拝。 〇5月出雲大社香里遷座祭執行。出雲大社遷宮奉祝考古展を四ツ角元幼稚園で開催。 〇加藤弁三郎、協和発酵工業社長に就任。 〇出雲大社氏子会主催「氏子野球大会」を外苑に於いて初めて開催。 |
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昭和25年
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1950年
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〇大社中学校、鵜鷺村をも組合立に含め、鵜鷺中学校はその分校となる。現在地に校舎新築移転。
〇大社東西小学校を名目統合し、大社町立小学校発足。西校舎を1・2・3低学年、東校舎を4・5・6高学年体制。 〇4月、大社中学校、荒木分校、遥堪分校を実質統合。12月、鵜鷺中学校(分校)校舎新築落成。 〇大社町創立25周年記念行事挙行。 〇大社海水浴振興会、出雲新聞共催のど自慢大会をいなさ浜で開催。 〇米井福市、鵜鷺村に鷺海洋漁業株式会社を創立、シイラづけ漁業など地元行業発展に貢献。 〇大社町人口、男5,071人、女5,666人、計10,737人。世帯数4,376戸 |
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昭和26年
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1951年
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〇藤井定吉(小土地)東京神田に「いづもそば」出店。宮内庁、総理官邸御用出雲蕎麦本家「いづもそば」のはじまり。
〇新大社町誕生。大社町、荒木村、遥堪村、鵜鷺村、日御碕村が合併。 〇人口21,478名、世帯数4,378戸。 〇鵜鷺中学校、独立の中学校となる。大社町立鵜鷺中学校設置。 〇出雲日御碕灯台50周年記念式挙行。 〇国鉄、大社〜東京間の直通急行列車開始。 〇大社町小土地下海岸堤防建設。 〇鵜峠鉱山、大宝鉱業株式会社となる。万場禎輔、大社鉱山(稲佐)を開発す。 〇大社水産協議会、わかめの養殖に成功。 |
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昭和26年
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1951年
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○稲佐浜の植林。
砂防林として松を植林する。この稲佐の浜は、古くから国譲り神話の舞台として知られている。今も旧暦十月の神迎祭には、出雲大社に集まる全国の神々をこの浜より迎えられる。 また、この浜は出雲浦という名で数々の歌に詠まれた名勝でもあり、「出雲八景」の一つでもあった。 明治21年に県下で最初に開設された海水浴場で多くの人々に親しまれている。 |
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昭和27年
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1952年
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〇大社小学校、完全給食実施。
〇「出雲大社本殿」1棟、出雲大社所蔵「秋野鹿蒔絵手箱」1合、新国宝に指定さる。 〇山陰新報社主催出雲阿国350年記念祭歌舞伎展覧会を大社町公民館において開催。 〇第2回大社町民体育大会を外苑で開催。 〇大社信用組合営業開始。 〇大社〜鵜鷺間一畑バス運行開始。 〇中村守一(鍛治町)錦鯉飼育始める。これにより県下で大社町が錦鯉飼育の発祥地となる。 〇この頃よりパチンコ最も盛んで、町内に業者10軒位。 |
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昭和27年
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1952年
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〇鵜鷺で最初の乗合バス。乗合バスの運行は大正末から昭和初年だったが、運行回数が極めて少なく、
多くの人はもっぱら歩いて用を足した。大社から日御碕線は大正末、鷺浦線は第二次世界大戦後のことであった。
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昭和28年
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1953年
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〇象の宮参り。
昭和の遷宮で勢溜にきた木下サーカスの象が出雲大社に参拝をした。木下サーカスは、拝殿火災の消化活動に貢献している。 |
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昭和28年
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1953年
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〇大社町立保育所開設。(市場荒神社東)
〇今市街道、宮内・院内、立小路・永徳寺道路舗装。 〇町立水族館(第二次)開館。神国博覧会の施設として建設され、昭和35年休館となり、後廃館となる。 〇5月1日より1ヶ月間、大社外苑にて神国博覧会開催。 〇5月10日、出雲大社正遷宮執行。 〇日御碕灯台建設50周年記念式典挙行。 〇5月27日、遷宮奉祝行事の残火の不始末から出火、拝殿、庁舎、鑚火殿等8棟および民家1棟、境内樹木など多数を全半焼し、重要な文化財も多数焼失す。 〇山崎独立軒、「出雲大社昭和正遷宮」写真集発行。 〇大梶踊保存会、島根県盆踊大会優勝。(出場人員50名) 〇杵築、荒木、遥堪地区に出雲煙草耕作組合大社支部結成。 |
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昭和29年頃
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1954年
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昭和30年
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1955年
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〇昭和30年頃の船谷にあった鵜峠鉱山。
〇大社警察庁舎(神門通り)失火により全焼す。 〇大社電報電話局新設され、出雲〜大社間での即時通話取り扱いが、山陰地方で初めて行われる。 〇湊原海岸砂防植林で黒松、アカシアの苗8万2千本を三ヵ年かけて植える。 〇「神迎之神事」百数十年ぶりに古式にのっとった儀式で復活す。 〇大社町人口、男10,104人、女11,012人、計21,116人。 |
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昭和31年
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1956年
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〇町営プール。昭和31年大社水族館前に新設され、長さ25m、幅10m、深さ1.3m、総工費150万円であった。
〇大社国学館、北斗会館を教場として再校さる。 〇荒木幼稚園、大社幼稚園の分園として発足。旧役場建物を改造して使用。 〇出雲大社大祭礼行事として、日本一福男選び競技大会をはじめて行う。 〇大社観光協会新発足。 〇県立大社高校野球グランド工事完了。収容能力5千人という大球場となる。 〇第10回島根県中学校野球大会で大社中学校優勝。 〇下原入口コンクリート舗装施行。 |