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神 話 の 出 雲 国・大 社 町

大社町内の寺院

<大社町内の仏教の概観>(大社町史下巻・平成7年発行より)
 当町には出雲地方を代表する大規模な神社、出雲大社や日御碕神社があり、その宗教的、世俗的な力は古代から強力であった。したがって、仏教の出雲地方への進展は、このような神社勢力との融和共存を前提としなければ困難であった。神祇信仰を積極的に教義のなかにとりいれている宗派ほど、出雲地方へ進展しやすかったのである。出雲大社の膝下にある当町では、特にそのことを指摘することができる。
 近世中期における当町域の寺院分布は、真言宗(12)、曹洞宗(19)、浄土宗(9)の三派がきわだって濃密である。真言宗は松林寺、曹洞宗は神光寺、浄土宗は誓願寺をそれぞれ中心に、いくつかの末寺群をつくり、一つの勢力を形成していた。
 もうひとつ注意すべきは、出雲大社のお膝下である杵築地域に拠点をもうけようとする宗派は、出雲大社または出雲国造家となんらかの関係をもつような寺伝をつくりあげているということである。

 例えば、真宗乗光寺は、北島乗光(出雲国造世系譜によると北島経孝)が、巡錫してきた明光上人に帰依し、一寺を建立したとの寺伝をもつ(杵築古事記)。国造家との関係をもつことにより、布教を有利にしようとしたのである。  浄土宗誓願寺は、国造北島義孝の後室が出家し、弘安4年(1281年)客の森の脇に小庵を営んだのがそもそもの始めであるという(杵築古事記)。
 真宗願立寺は、弘治年間(1555年〜1558年)社家佐草勝清が病身のため出家し、松林寺徳翁法印の弟子となり、松林寺の後ろに小庵を設けた。のち、石州仁万村の真宗の徒が乗光寺に巡錫し、やがて小庵の住持となって真宗願立寺とした(杵築古事記)。
 出雲雲樹寺開山三光国師狐峰覚明は、康永2年(1343年)出雲大社の神前に、9条と25条の袈裟二領を奉納したという。(狐峰和尚行実)今も北島国造家に伝わる袈裟がそれであるといわれている。これは禅宗の出雲大社への接近とみなしていいだろう。
 以上のように、仏教側から神社側への接近がみられた。

 一方、出雲大社をはじめ神社側から仏教側への接近もみられた。その例をいくつか挙げてみよう。
 一、12世紀後半にいたって成立したといわれる鰐淵寺は、その当初から出雲大社の本寺的な性格をもち、出雲大社最大の行事である三月会にあたって、神前で大般若経を転読するなど、重要な役割をになっていた。すなわち、平安末から出雲大社は神仏習合的色彩を強くもっていたのである。
 二、北島国造家文書応永4年10月28日「僧乗心置文」によると、杵築の惣持院は北島氏が相続する寺であるとし、国造家も寺院をもっていたことが分る。
 三、北島国造家文書「国造北島氏支配屋敷目録」によると、杵築地区で北島氏が支配していた寺は、妙音院、現香院、極楽寺、宝海寺、法泉寺、海善寺、礼岩寺、常楽庵、法念寺、妙行寺、誓願寺、与楽庵の12寺におよんでいる。
 四、尼子経久による永正16年(1519年)の出雲大社造営においては、両部神道の理念によって仏教色が濃厚となり、神域に護摩堂形式の拝殿、鐘楼、三重塔、輪蔵など、仏教建築が建てられた。
 五、日御碕神社にも中世には、神宮寺や恵光院などの仏教寺院が付属していたが、近世中期の史料によれば、神域内には三重塔(塔カ)(本尊釈迦如来)、薬師堂(薬師如来)、多宝堂(塔カ)(五智如来)、大師堂(弘法大師)、護摩堂(愛染明王)、鐘楼など、密教的堂塔が多数存在していた。(宝暦4年神門郡北方万指出帳)。
 以上の例からみても、出雲大社・日御碕神社ともに、神仏習合的な色彩がきわめて濃厚だったことが判明するだろう。

 ところが、出雲大社の寛文7年(1667年)の造営にあたって、藩主松平直政は境内より仏教色を一掃し、唯一神道の理念に基づいて、純然たる神社建築に復活させようとした。この神仏分離的な施策によって、寺院のなかにかなり廃寺に追いこまれたものがあったようだ。
 「杵築古事記」初巻によると、真言宗大願寺の住僧は、松平直政に対し無礼のかどで国外追放となり、寺は焼き払われた。その跡地に、八雲山の麓にあった北島家の居館を移したという。
 三明寺(曹洞宗)、神宮寺(曹洞宗)、天徳寺(曹洞宗)、録仙寺(天台宗)、海蔵院(真言宗)、永徳寺(真言宗)などは、寛文の造営にあたって替地を余儀なくされ、そのため次第に衰微退転していった。杵築地区の廃寺が特に多いのは、寛文の造営にあたって、神仏分離、唯一神道の復活がなされ、そのため廃寺に追い込まれたものと思われる。
 なお、当町では禅宗のうちの臨済宗が見当たらない。臨済宗は教理的に神道と対立矛盾するものではない。おそらく、曹洞宗勢力の地盤が固く、教線が入り込めなかったのであろう。



 「大社町総合年表、大社町史」(大社町教育委員会発刊)の記述から、関係部分を抜粋。

◆原史時代
 ◇宣化天皇3年(538年)、日本に仏教が伝わる。

◆奈良時代
 ◇養老元年(717年)、杵築に広瀬山養命寺(真言宗)創建。行円。
 ◇天平年間(729年〜749年)、柳滝山長谷寺(真言宗)創建。出雲観音霊場第一番となる。

◆平安時代
 ◇大同2年(807年)、僧空海、開眼のため杵築大社の守護別当寺として、真言宗、影向山松林寺を創建。
 ◇天暦3年(949年)、村上天皇の勅願により、日御碕神社境内に伽藍を建立、神宮寺と号す。宗旨は真言宗。

◆鎌倉時代
 ◇貞応元年(1222年)、北島経孝卿出家し、法名を乗光と号す。浄土真宗、紫雲山乗光寺の起源。
 ◇安貞元年(1227年)、道元禅師、宋より帰朝し曹洞宗を開く。
 ◇永文6年(1269年)、杵築南に浄土宗、清久寺創建。上田対馬清久。
 ◇永仁元年(1293年)、永仁年間、坊床(弥山の西奥)天台宗の道場となる。神光寺の起源。

◆南北朝時代
 ◇興国4年(1343年)、三光国師、山根南に神宮寺を建立、開山堂を三光殿と称す。
 ◇文和3年(1354年)、曹洞宗、不老山荘厳寺開基。神光寺開山・悦堂常喜和尚。それ以前は天台宗で、鰐渕寺の末寺であった。
 ◇貞治年間(1362年〜1367年)、この頃、弥山の西、坊床に不老山神光寺再建。10世まで坊床に居住。

◆室町時代
 ◇応永17年(1410年)、神光寺開山、悦堂和尚遷化。
 ◇文安2年(1445年)、仮の宮に曹洞宗、海晏山潮音寺開基。神光寺4世・敬巌一尊和尚。
 ◇寶徳3年(1451年)、赤塚に曹洞宗、佛性山法海寺開基。神光寺5世青山善秀和尚。
 ◇長禄年間年(1457年〜1459年)、神宮寺、曹洞宗に改める。
 ◇延徳3年(1491年)、山根に海雲山西連寺創建。広瀬嘉内親睦開基。
 ◇永正4年(1507年)、日蓮宗、勝島山妙行寺開山、日受大徳寂。
 ◇永正年間(1504年〜1521年)、浄土宗、誓願寺創建。慈哲和尚。
 ◇天文年間(1532年〜1555年)、玄光院に曹洞宗、無量山西光寺開基。神光寺8世一峰宗善和尚。
 ◇天文5年(1536年)、出雲大社の神職、職を辞して仏教に帰依。浄土真宗、勝島山願立寺開基。往古真言宗の道場。
 ◇元亀2年(1571年)、荘原村(現斐川町)の神主、永徳寺の本尊を大社に移し、庵寺を作る。

◆安土・桃山時代
 ◇天正年間(1573年〜1592年)、曹洞宗神光寺別院、子安寺建立。神光寺12世芳山玄與和尚。
 ◇天正年間(1573年〜1592年)、浄土宗、松林山誓願寺開基。慈哲和尚。
 ◇文禄3年(1594年)、稲佐にあった所讃寺を辺地のため玄光院に所替え。庵号を玄光隠という。

◆江戸時代
 ◇慶長19年(1614年)、立小路に浄土真宗、西福寺開基。僧了空。
 ◇寛永18年(1641年)、宇竜に曹洞宗、蓬莱山福性寺創建。神宮寺9世了外門達和尚。
 ◇慶安元年(1648年)、鷺浦に曹洞宗、天龍山文珠院創建。神光寺16世久巌春昌和尚。
 ◇慶安年間(1648年〜1652年)、浄土宗、理光山安養寺開基。英山和尚。
 ◇慶安年間(1648年〜1652年)、鵜峠に浄土宗、西方寺開基。
 ◇寛文元年(1661年)、江戸幕府寺社奉行、大社の両部不可を説く。
 ◇寛文2年(1662年)、幕府社寺奉行、大社の神仏分離を諒解。
 ◇寛文2年(1662年)、北島邸内にあった、曹洞宗神宮寺廃止となる。
 ◇寛文5年(1665年)、両部改正に際し、大社近傍にあった峯薬師堂を修理免本郷に移す。
 ◇寛文7年(1667年)、12世紀後半から長い年月続いた、大社と鰐淵寺との関係断絶する。
 ◇寛文7年(1667年)、宇竜に浄土宗雲生院を建立。単誉雲生。
 ◇貞享年間(1684年〜1688年)、浄土真宗、知西寺。大梶七兵衛らの主唱により湊原に創建。開基明円。
 ◇正徳年間(1711年〜1716年)、遥堪に天台宗、霊山寺中興。元は曹洞宗。
 ◇享保12年(1727年)、北荒木に曹洞宗、華厳山日光寺創建。禅山元嶂和尚。
 ◇天保2年(1831年)、原町に浄土真宗、明源寺創建。

◆近代
 ◇慶応4年・明治元年(1868年)、神仏分離令出される。太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称。
 ◇明治3年(1870年)、廃仏毀釈により、出雲大社の懸仏の多数つぶされる。



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