大社町内杵築地区の松林寺を紹介するサイトです。
神 話 の 出 雲 国・大 社 町

大社町内杵築地区の松林寺

<杵築地区>

松林寺しょうりんじ 大字杵築東
松林寺の写真 宗  派 真言宗醍醐派 影向山 醍醐報恩院末
本  尊 大日如来
文 化 財 町指定絵画 絹本著色真言八祖像
     町指定彫刻 木造大日如来坐像(一躯)・木造不動明王(一躯)・木造設彩青面金剛立像(一躯)・木造設彩脇童子立像(二躯)・木造設彩三神猿(三躯)
     町指定民俗文化財 常香盤
由  緒 「寺院明細帳」に、延宝年間(1673〜81)古書が焼失したので、創立年代不明とあり、確かなことはほとんど分からない。 弘法大師開創の寺伝があるが信じがたい。出雲大社の別当寺であったと伝えられる。 寛文の造営の際、出雲大社の仏教施設や仏具を払い下げてもらっていること、寺の西隣に国造家の墓地があるなどを考え合わせると、 当寺は古くから出雲大社や国造家と特別な関係にあったことがうかがえる。  「杵築古事記」によれば、永正十二年(1515)当寺と戦国大名尼子晴久との間に確執がおこり、晴久は一宇も残さず焼き払ったという。 年代的に言えば、晴久ではなく祖父の経久であろう。  松林寺住僧の来栄は、寺を抜け出て大願寺を建立した。大願寺は今の北島国造館の場所にあった。  山中鹿介幸盛は、尼子晴久の罪業を償うため、当寺を再建したともいう。もしこれが事実とすれば、鹿介が浪人中に杵築へやってきたのは、 永禄十二年(1569)から元亀二年(1572)の間であるから、松林寺の再建もこのころであろう。 しかし、その後吉川元春の軍勢が攻めて来たので、本堂・護摩堂が焼失した。寛文の造営において、出雲大社の神域から仏教色が一掃されることになった。 その時点で、出雲大社と松林寺の特別な関係は打ち切られ、以後衰退の一途をたどったものと思われる。 だたしこの時、出雲大社から払い下げを受け、鐘楼・梵鐘・大日如来・観音菩薩・弁財天・不動尊・護摩堂などが移されたと言われる。  鐘楼は天保十二年(1841)ごろには腐朽がひどく、ために平安時代の承和六年(836)の銘を持つ梵鐘は下ろされていたが、明治二十二年売却に付され、 転々としたのち、福岡県早良町の西光寺に買い取られ、現在は国宝に指定されている。




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