平成の広域合併で出雲市となる前のふるさと大社町の懐かしい街角・杵築北地区を紹介するサイトです。
神 話 の 出 雲 国・大 社 町

中荒木地区


中荒木の概略図
開拓の歴史とともに
 中荒木地区は、荒木の南端あって出雲市と接し、東に浜山、西の八通山との間にあって、中心を流れる高瀬川をはさんで田畑が広がっているのどかな地域である。  斐伊川が西流していたころ(1630年頃)、湊原などは大きな港であったといわれる。斐伊川が東流し、宍道湖へ流れを変えた後、大梶七兵衛翁が荒木浜の開拓に着手し、近隣の村より移住者が増えて、元禄2年(1689)、神門郡中荒木村ができた。また、明治22年(1889)に市町村制が施行され、3村合併(中荒木、北荒木、修理免)により荒木村大字中荒木村となっている。  中荒木は、砂丘地での困難な歴史が偲ばれるが、今では荒木で一番の農業地帯となり、稲作をはじめ、ぶどう、野菜などが生産され先人たちの開拓の恩恵を受けている。  近年、地区の中央を通る国道431号の整備とともに、大型スーパーや福祉施設もでき、また、住宅団地やアパートなどが建ち、大きく様変わりしつつある地区である。


八通山林
 
八通山林のいわれ

 寛文(1661〜73)の頃までは、日本海の砂浜に続く荒涼たる砂地で、西の烈風が吹きすさぶ砂地であったg、延宝5年(1677)に率先してこの地に移住した大梶七兵衛の地道な努力により、総面積75ヘクタール・松樹10万本の防風林が完成した。
 八通山の名前の由来は、松の植え方を「8列に植えた」、「八という末広がりを意味してたくさん植えた」などいろいろな説がある。


大梶翁の記念碑
 
大梶翁の記念碑

 八通山山頂の中央部に、碑文のない石碑が建立されちるが、大梶翁の功績を称える最初の碑であるといわれている。
 碑は、明治40年(1907)に八通山林会の設立ととみに建立され、毎年春の彼岸に仏式によりお祭りが行われていたが、昭和14年(1939)に大梶社が創建されてからは、祭典も神式となった。

大梶社
 
大梶社

 昭和14年(1939)初代大梶七兵衛の250回忌にあたり、山林の落ち葉や枯れ木の代金を基金に建立されたもので、主祭神を「大梶七兵衛大人命うしのみこと」とし、大梶家守護社の分霊をお祀りしたものである。例年、八通山林会により4月29日祭典が行われている。


一文橋
 
一文橋いちもんばし

 荒木地区の南西に位置する町内、一文橋地区は、新内藤川と神戸川に接する地域で、古くから船便を利用した交易の盛んな地域であったといわれる。
 現在の神戸川周辺は砂地に覆われて川幅が数10メートルに過ぎない地域ではあるが、江戸時代には水も豊かで、川幅も4〜500メートルはあったといわれ、小型の船の出入りが盛んなところであった。
 延宝5年(1677)に大梶七兵衛翁が荒木浜開拓のため荒木に移住し、「湊新町」が出来た頃、人の移動が盛んになったため、澄田甚九郎が赤川(新内藤川)に自費で橋を作り、この橋を渡る人から「一文ずつ徴収した」ことから一文橋といわれるようになった。


六部墓
 
六部墓ろくぶはか

 享保10年(1725)に西境内地山(中荒木、北荒木の境)のあたりに仏像を背負った「六部」が行き倒れの状態で発見された。
 六部は、恵比寿の知西寺に運ばれて元気になり、その時背負っていた仏像(阿弥陀如来)と土地を買い上げ、墓地として知西寺に寄進した。
 墓地は「六部墓」として移住してきた人々に役立てられており、毎年9月18日「六部祭り」がある。
 なお、知西寺に残された如来は、寺の内仏として祀られている。


湊社
 
湊社みなとのやしろ

 八通山林の東に座するこの神社は、大国主神が国譲りの後、天日隅宮あめのひすみのみや(出雲大社)に鎮まった時に膳夫かしわでとなって饗応したといわれる櫛八玉神くしやたのかみを祀った社である。
 国造の火継式には、この神を祀り、式終了後国造は、この社に拝礼する事がしきたりになっている。また、8月の神幸祭(身逃神事みにげのしんじ)の時には、出雲大社の禰宜ねぎが、この社で祭りを行う。
 『出雲国風土記』にある「支豆きづき支社」は、現在の湊社といわれ、地元では「みなとさん」と呼ばれ親しまれている。


恵比須神社
 
恵比寿神社

 恵比須神社は、寛文11年(1671)湊原新町に大梶七兵衛翁の勧進でできたもので、その後、延宝3年(1675)に、松江藩から正式に産土神うぶすながみ
・守護神として許可されたのを機に現在地に鎮座され、惣荒神社恵比須神社となった。
 この地域が中荒木村、北荒木村、古荒木村の3つの村に分けられた時には、3村の氏神となっていて、明治5年(1872)に荒木総鎮守・恵比須神社となった。
 主祭神は蛭子之尊、大巳貴之尊、事代主之尊であり、10月17日例祭がある。


知西寺
 
知西寺

 恵比寿町内の畑に囲まれたところにある浄土真宗知西寺は、大梶七兵衛翁が荒木浜を開拓した際、地区住民の精神教化と人心のよりどころとして勧請した。
 本寺は、吉栗山(佐田町)に廃寺となっていた知西寺と観音堂を延宝5年(1677)に再興し、その後、貞享元年(1684)に現在地に移転されたものである。

 知西寺境内のコマチ竹
 境内の西側に群生している「コマチ竹」は、ホウライチクのかんに孔のない一品種で、昭和43年(1968)に発見された。
 稈に孔がなく、枝や葉の並びもホウライチクやホウオウチクよりも小形で美しく、小野小町に例えて「コマチダケ」と名付けられた。

 知西寺境内のラッパイチョウ
 胸高周囲105センチの雌株で樹齢120年、葉の形状が普通は扇形であるが、「ラッパイチョウ」は筒状になっていて珍しい。


大梶七兵衛銅像
 
大梶七兵衛銅像

 恵比須神社勧請300年を記念し、大梶翁の恩恵と高徳を偲ぶため、恵比須神社氏子会が中心となって、昭和48年(1973)に当地出身の池田佳穂に依頼し銅像を作成した。
 銅像は、恵比須神社に残る絵をもとに、野ばかまでわらじを履き、わき差しを差し、煙草入れの小袋をつけている。
 工事現場で指揮するたくましい姿を表し、八通山を指指している。
 高瀬川沿いにあったが、平成16年(2004)に完成した「ゲートウェイパーク」に移設され、銅像は今もむかしも、翁が最初に手を掛けた八通山の方向に向けて建立されている。
 荒木小学校の玄関内の大梶翁の銅像も、八通山を指差して設置されている。


高瀬川分水場
 
高瀬川分水場

 昭和14年(1939)に、大干ばつに見舞われ(5ヵ月間雨なし)、高瀬川の水が枯れ農作物に大きな被害が出た。特に水稲は一粒の米もとれない水田が多かった。
 村では給水方法の改善を図るため、本郷用水と荒木用水の2計画を立て、本郷用水は堀川から荒木用水は内藤川と赤川から高瀬川に給水し高瀬川を通して地域の水田へ配水することとなった。
 昭和15年(1940)に始まり、給水管(ヒューム管)は一文橋から分水場まで約500メートル埋設され、当時としては一大工事であり老若男女総出で作業にあたり、昭和18年(1943)に完成し給水が始まった。
 この小路の意義を子どもたちに知らせるために、地中に埋設された物と同じ土冠をもらい受け、荒木小学校の門柱(南門)が作られている。荒木用水は、今なお使われている。
地名あれこれ
大梶
 延宝5年(1677)に大梶七兵衛が荒木浜に移住し、居を構えて八通山の植林や高瀬川の開削に本格的に取り組んだころから、この地に居住集団が生まれ、そこからこの名がついたものと思われる。
 この地域は、八通山の東にあり、強い西風を防ぐ唯一の場所として家々が立ち並びはじめたといわれる。

四軒家
 八通山の東側一帯、山に沿って細長く民家の続く地帯で、大梶とともに強風が避けられる地域である。
 「四軒家」という名称は、荒木浜開拓時、藩政策の分散農村方式により、初めに4軒の農家が入植し、開拓に努めていたことから、このように呼んだと言う説と、荒木浜開拓以前から出雲大社の摂社である湊社に関わる人が4軒この近くに住んでいたから、この地名が生まれたという2説がある。
 なお、昭和15年(1940)頃までは「四軒家」ではなく「四軒屋」であった。

一文橋
 湊原に隣接する「一文橋」は、八通山の南端地、新内藤川に接する地帯で、橋の名前がそのまま町名になっている。
 なお、昭和6年(1932)頃までは、唐島の一部であったが、その後「一文橋」として独立した。

唐島
 古くは神戸川、新内藤川が合流するこの一帯は、低湿地だったようである。その中で現在の「唐島」の部分だけは丘陵地で、開拓が始まった時からこの地に海事や農業に従事した人々が住居を構え始めたといわれている。
 古老によれば、この地の人の仕事が海や川に関係したものが多かったため、「遠い地」、「外国」との交流があったといわれたことから、「唐と交流のある小さな島」、「唐島」といわれているとのこと。

恵比寿
 中荒木の南の出雲市荒茅境にある「恵比寿」町内は、地区内に荒木総鎮守恵比寿神社を有し、神社名をとって「恵比寿」としたといわれている。
 恵比寿神社が現在の地に遷座して以来、周辺には次々と家が建ち、集落が出来たといわれている。
 なお、町内には荒木地区の「恵比寿」と日御碕地区の「恵比寿」と2つの町内会がある。地区の名称としては杵築地区内にも「恵比寿」がある。

浜根
 中荒木の南東部に位置し、県道大社立久恵線の両側一帯の町名である。
 「浜根」という町名は、浜山の根っこを占める地帯という単純なことから生まれたとい説と近くを流れる新内藤川にかかわって川や海の仕事をした人々がここに住居を構えら浜であったという2説がある。

小丸子
 浜山の西側中央部にある浜根と隣接した地域である。
 「小丸子」の地名は、古老の言い伝えによれば、明治中期から後期に至る時代、この地域には、藍染めに使う小さな藍団子を作る人々の集団が住んでいて、その人達がつくる団子の形から、「小丸子」というようになったという説がある。

中荒木の雑記
大梶七兵衛朝泰ともやす朝則とものり
 大梶七兵衛朝泰(初代1621〜1689)は、簸川郡古志村の生まれで、荒木村に移住し荒木3村(古荒木、中荒木、北荒木)の拓殖をはじめ、差海川、十間川、高瀬川、馬木岩桶開墾を成し遂げている。また、引き続いて七兵衛の孫である大梶七兵衛朝則(三代目)も、高瀬川の来原桶開墾を初代七兵衛の遺言により完成するなど、祖父から孫にわたり、この地域の開拓に力を注いでいる。
荒木集落発祥の地
 四軒家から一文橋に至る約1500メートル、幅250〜280メートルの松林の丘「八通山」が現荒木集落発祥の地であり、林内の大梶翁記念碑の地殻に標柱が立っている。
 荒木の開拓の歴史に想いが掛け巡る場所である。

フランス海岸松
 地中海沿岸の原産といわれるこの松は、乾燥した砂地や海岸地帯で良く生育するので、海岸砂防樹の目的で明治初期に日本に輸入された。
 日本在来の松より成長が早く、松カサ、松葉がともに大きい。特に八通山林は、防風・防砂のために県の指導と斡旋により試植されたものらしい。
 現在、一文橋周辺にわずかに残っている。

一文橋の金毘羅宮
 一文橋公会堂脇にある金毘羅童子を祀った社である。
 神戸川、新内藤川の合流地点は、昔大きな帆船や作業船が入港する場所で多くの船人が働いていたという。その人たちが航海の安全を祈る神として、香川県琴平町の金毘羅宮の方々によって勧請かんじょうされ、当地に祀られたものである。
 「こんぴらさん」で知られる琴平町と大社町は、平成16年(2004)に友好都市の締結をしている。

一畑燈籠
 一畑寺の薬師如来を供養するため建立したもので、荒木地区には3つの燈籠がある。浜根燈籠:明治10年(1879)建立、小丸子燈籠:明治24年(1893)建立、下中荒木:建立不明。
ゲートウェイパーク
 浜山公園線と国道431号(えびす通り)の交差点にできたポケットパークである。大梶翁の銅像のほか、土地改良事業の碑、出雲大社の巨大神殿の柱のモニュメントがあり、柱には中国人水墨画家「王子江おうすこう」の揮毫きごうによる出迎えの言葉が書かれている。
えびす通り
 国道431号の中筋萬屋交差点から南へ出雲市までの通りである。
 ブドウ団地の中を抜け、恵比須神社の東を走る通りであり、山陰自動車出雲インターに繋がる本町の南からの進入幹線道路というべき通りである。


 元禄2年松江藩が、湊新田町を廃し、3つの村(古荒木、中荒木、北荒木)に分けられた時、それぞれ地主荒神として、古荒木村では「中道荒神」、中荒木村では「八通荒神」、北荒木村では「北荒木荒神」をお祀りした。
 その後、明治5年(1872)の神社制度改正により中道荒神と八通荒神は合祀され中荒木総荒神社として恵比須神社境内に祀られるようになった。 八通山林は仲間山
 八通山林は、国有林であったが、明治40年(1907)に払い下げとなり、地元では「八通山林会」を組織して管理にあたり、仲間山(入会林)といって落葉、枯枝などを燃料として利用してきた(昭和50年代まで)。その後防風保安林に指定されたが、この会は現在もそのまま引き継がれ運営されている。