大社町内の石造物を紹介するサイトです。
神 話 の 出 雲 国・大 社 町

大社町内の石造物・道標

大社町内の石造物・道標は、「大社の史話」に掲載されている藤原慧様の投稿文「大社の石造物」や大社町に関連する書物をもとにを作成したものです。

<宇迦橋南詰石碑>

宇迦橋南詰石碑
 宇迦橋の南詰にひっそりと佇む石碑には、高岡知事による宇迦橋の名の由来が刻まれている。
 「直線道」と宇迦橋の意味
 大正2年(1913)7月17日の「山陰新聞」には、堀川に架けられる橋梁(後の宇迦橋)の設計について、古代式に則り青銅の擬宝珠を付し荘厳を添ふべく設計せられ、直通道(神門通り)に添ひ直線に架設せらるる筈にて、従って架橋の位置は川の両側に斜めとなる訳にて、斯る例は県下他になく、記録破レコードというべきとある。
 橋は川の流れに垂直に架けられるのが普通であるが、直線道の延長方向に真っすぐ(堀川に対し斜め)に架け、道は大社駅方面にゆるやかにカーブさせるというのだ。つまり勢溜と大社駅を直線で結ぶのではなく、参道から直進させた道路の延長線上に橋は架けられることになった。
 これは、高岡知事の意思が強く働いていたようである。出雲の大社と言えば、伊勢神宮に比較されるほど日本中で知らぬ人はいない。文字通り「大社」であり(戦前に「大社」号を許されたのは出雲大社のみ)、郷土の礎である。駅を降り立った人々に、その大社に相応しい参詣道を用意するという意志である。
 駅通りは市町村により築造され県が補助するのが通常であるが、勢溜から宇迦橋までの直通道(神門通り)も県費(県道)で築造されている。審議において、道路築造の理由を問われた高岡知事は次のように答えている。

 「大社ハ島根県ノ大社テナクシテ天下ノ大社デアル、即チ日本国ノ大社テアリマス。(中略)斯カル有名ナ大社ヘ詣ル道トシテ、里道ト殆ント撰ハナイ。里道ノ様ナ道テ甘ンシテオル訳ニハ参りマセヌ」

 「直線道」の起点に据えられた宇迦橋は、出雲大社への荘厳なアプローチとしての性格を象徴するといえるが、「宇迦橋」という命名にも高岡知事の強い意志が感じられる。竣工間近の橋について報じる大正3年(1914)4月18日の「山陰新聞」には、橋の命名に際し「古典を渉猟」したとする高岡知事の言を次のように紹介している。

 「宇迦橋と名くる所以は、神代の昔大国主神が速須佐之男命の保護を受け後ち其許を去り玉ひし時、(中略)此に國造りの大功成りて、諾冊二尊の大業を完成し玉ひ、所謂出雲朝廷の都を素尊の御教なる宇迦の山の山下にて開かせ玉ひしにても知らる。殊に出雲朝廷の最大記念たる出雲大社に賽するもは、必ずや此尊き権威ある宇迦の名を離れて出雲大社を考ふる事能はざるべし。此橋は実に史的神聖地に入る第一歩の関門なる意味を取りて、かくは名付けられたるなり。」

 ここに記されるように、高岡知事はこの橋を、出雲大社への「関門」として明確に位置付けていた。

いずも財団叢書 出雲大社門前町の発展と住民の生活 より
 


<径是西杵築神領>

径是西杵築神領の道標
 堀川の馬渡橋を渡り真っすぐ行くと湊原の特老いなさ園と浄水場のソーラー施設の中間くらいの道端に杵築神領の道標がある。これから西は杵築大社の神領区域であるとの道標である。
 出雲大社の門前町としての戦国期の杵築は、①参拝客をもてなす、②仏教イベント、③商業都市として発展してきた。江戸中期以降の杵築町は、宮内村、越峠こえど村、中村、市場村、大土地村、仮宮村、赤塚村、修理免しゅりめん村の8ヶ村から成り立っているが、機能・景観から分類すれば「宮内村」、「杵築6ヶ村」、「修理免村」の3ツの区域に分けることができる。
 出雲大社の支配地区から見ると、「宮内村」、「杵築6ヶ村」と「修理免村」の一部ということになる。「修理免」村は杵築大社と松江藩両方の支配下にあった。

 「宮内村」は、現在の宮内、真名井、奥谷が該当する。この区域には、杵築大社上官や被官等が居住し、商家はなく、最も宗教的雰囲気が漂う区域だった。周囲に広がる田地は社家の田地で、仮宮や赤塚等の農民が耕作していた。
 「杵築6ヶ村」は、越峠村、中村、市場村、大土地村、仮宮村、赤塚村が該当する。杵築町の中核を担う区域であり、宿屋をはじめ様々な商家に農業・漁業が盛んであった。
 「修理免村」は、勢溜の東西つまり現在の大鳥居・富屋町から馬場(神門通りを含む)、本郷・原町・西原・南原・上原を含む広大な地域がそれに該当する。この区域は砂地・草木地・湿地・池などが広がる荒地であった。

 戦国期の杵築町は今日とは異なり、住民が居住していたのは杵築大社周辺部とそれから少し離れた海岸部寄りの地だけで、一般的な門前町と形態からいえば、歪な形をした門前町だった。このような景観は江戸中期まで続いていたと思われる。今日参詣客で賑わっている神門通りを含む出雲大社の西南部から東部にかけては、人々の居住を拒否する荒地だった。このような門前町が近世どのように変貌してきたのだろうか。
 ひとつには、町域が東部へと広がってきた。杵築大社前西南部が奥谷住民によって開拓された。大鳥居付近に井戸を掘り、そこを基点に微高地の開拓を進め、やがて、道路沿いに家並みができ始め馬場までつながっていった。
 ふたつめは、杵築大社前南の微高地を切り開き、勢溜と呼ばれる広場を設けた。勢溜には芝居小屋などが建てられ、参詣客の娯楽の地となっていた。
 みっつめは、参詣道が、勢溜に向かって延びていった。市場橋から四ツ角を経て勢溜へ、馬場橋から勢溜へのルート。もちろん市場・四ツ角を経て北進する旧来の参詣ルートも主要参詣道として利用された。
 よっつめとして、三木与兵衛・加兵衛親子による菱根池干拓で荒地が開墾された。菱根池の水を杵築湾に流すために東部から南部に堀川が流れるようになった。これにより、堀川に、馬場橋(神光寺橋)・流下橋(市場橋)がかけられ、杵築町に入るにはどちらかの橋を渡るようになった。この両橋は参詣客が宿泊する宿屋の激しい客引き場所となった。

 <余談> 修理免の由来
 前述した大鳥居から上原までの広大な地域であった修理免は、荒地で住民が済みにくい地域だった。当初は松江藩と杵築大社の共同管理であったが、寛永元年(1624)の堀尾検地で初めて250石余を検出(北島家文書)。これが、出雲大社の荒垣・道路・橋などの修理料として検地帳に記載された。
 したがって、開発地であることから他地域と同等の租税負担はなく、開発された田畑に対してのみ、修理料の負担があった。その修理料を負担することを「修理免」と呼んだ。(千家家所蔵古文書写・甲号)。「免」とは、税を免除することではなく、税を負担するという意味である。やがて江戸中期には、各所に点在した「修理免」は統合され「修理免村」となった。


<日御碕神社社頭の鳥居>

銘文のあった日御碕神社鳥居
 石造物といえば、石碑、石仏、鳥居、記念碑、道標、狛犬などがあり、神社の鳥居も立派な石造物である。
 明治までの一般的な日御碕神社への参拝は、稲佐の関屋西から、くどれの坂を上がり、籠立場から雲見峠に至った。そして、そこから中山の一里塚に出て、宇龍峠を下り、宇龍の町を抜け、港の近くの荒神社に出た。そこから上がり、竹縄家(屋号高門)の前にあった鳥居をくぐり、現在の日御碕小学校を通って、神社に参拝していた。
 この険阻な一本道。里程にして約2里(8キロ)の道を汗を流しながら往来していた。
 大正5年頃、簸川郡長千代延氏が小野家を動かし、土地の提供を得たので、郡費をもって、笹子・二俣・帆かけ・めがねの隧道が掘られた。さらに中山境から黒田を迂回し、宇龍峠さけて車道としたのが黒田線である。大正12年の郡制廃止と同時に県道に移管された。
 大正11年(1922)3月に大社より日御碕道が開通した。これにより宇龍峠を通る人が無くなり、昭和の初め頃より鳥居を神社々頭に移す議がおこり、県の許可を得て、昭和10年(1935)8月現在に地に移転が完了した。
 杵築の大和勘蔵という人が45円で請け負った。其の運搬中に鳥居についていた土や苔が落ちて次の銘文が発見された。

 東西花表、寛永末卯、江戸将軍源家光公建立也、
 大坂尼崎屋九郎左衛門謹職
 播州みかげを以て也

 寛永末卯は、寛永16年が己卯(つちのと、う)年にあたり、西暦でいえば1639年である。土に埋まり誰も見ることのなかった銘文である。
 現在の日御碕神社は日沉宮、神の宮共に徳川家光公の命により、幕府直轄工事として江戸より工匠を特派し、着工以来10年の歳月をかけ、寛永21年(1644)に竣工した。初期の権現造りで、御内陣の天井四壁の絵は狩野派、土佐派の画匠の筆になり、華麗荘厳を競って美事である。社殿の全部と境内の石造建築を含めて国の重要文化財に指定されている。
 播州より運搬するのに、筏を組み其の下に鳥居を結び舟で曳いて、日御碕神社下に付けたとある。海側の鳥居にも同一の銘文があると思われる。
 現在のように道也トンネルを広げて、舗装したのは、昭和36年に1億5千万円の補助を受けて完成した。また黒田から灯台に出る道は有料道路として、昭和43年12月に開通して、現在は無料になっている。


<於國塔>

奉納山の於國塔
 歌舞伎の始祖といわれる出雲阿国の塔は、奉納山中腹(正面石段を上り約30mの高台にある。
 昭和7年(1932)5月、水谷八重子が大社で公演した際に出雲阿国の墓参りをしたが、あまりの荒廃していることを嘆き、その修復を松竹の大谷竹次郎社長に訴えた。その後、大谷社長から島根県関係者や芸能関係者に働きかけがなされ、翌8年(1933)3月5日には、東京築地の東京劇場において「劇祖・阿国会」(会長 木村小左衛門)が発足した。
 この会は、阿国墓所修復基金募集のための演劇を上演した。そして、全国に向けて、出雲阿国キャンペーンを張った。この事業の主な目的は、阿国の墓の修復と阿国塔の建設にあったと思われる。昭和8年8月中旬に、木村小左衛門会長は、大社町が提案した阿国塔建設候補地四ヶ所(西連寺境内、奉納山、鹿蔵山、稲佐観音寺境内)視察のために、三島良蔵(松竹重役)と水谷竹紫(芸術座主幹)両理事を大社町に派遣した。阿国墓前奉告祭を行い、10月13日東京で再び幹部会をもち、視察の結果を踏まえて奉納山に決定された。
 奉納山は阿国の墓所から約200mほどの近さにあり、さらに国譲り神話の屏風岩に近く、直ぐに稲佐浜に出られ、観光客を牽引するのに絶好の地であること。ようするに交通的観点・観光的観点からみても最適地だというのである。しかし、建設予定地が30mの高台で老人や子供が登るには不便で、訪れる人が少なくなるのではという危惧があった。これについて、同会幹部は、奉納山を公園化し、阿国塔まで自動車道路を開通させれば、十分に観光スポットになり得ると指摘している。
 その後、同9年(1934)5月には東京で劇祖阿国記念塔建設委員会が発足し、本格的に工事が進められることになった。そして、同11年(1936)7月3日には、関係者が出席して盛大に除幕式が行われた。なお、奉納山は、千家国造家の所有地であったが、阿国塔建設にあたって、国造家から用地の提供があった。
 阿国塔の正面には内藤伸作の首にロザリオを掛け、腰に刀を差し、右手は扇をかざし、左手は地面に太刀を立て、覆面をした阿国の舞姿の銅製のレリーフがはめ込められた。さらに、その両面には、近衛文麿の「於國塔」という題字と伊原青々園の撰文とがそれぞれ刻まれている。そのほか、塔の玉垣には歌舞伎役者や水谷八重子などの自署を刻んだ石垣・石柱が取り囲んでいる。
 なお、このときのレリーフは戦時中に供出されたため、同43年(1968)になって内藤伸の愛弟子であった西田明文によって復元されている。今はこのレリーフが受け継がれているが、内藤伸の作品との違いは、阿国の覆面を外し、はっきり顔を描き出しているのが特徴である。


<遥堪杵築街道のみせん道標>

遥堪の道標
 遥堪小学校の校庭の先の川を渡った左手前の杵築街道沿いに小さな道標がある。この道は、旧杵築街道(大社では平田街道という)で、その昔多くの人が往来した街道である。出雲大社への参詣道のひとつで、原町に出て馬場通りを経て勢溜にいたる道である。その街道脇に置かれた道標は、舗装や道路の嵩上げなどで下部が塞がれている。その道標に刻まれている文字は、

 是より北 二十三丁
 みせん道
  村々寄進

 「二十三丁」とは、一丁(町)が約180mであるから、約2500mである。この「二十三丁」は、道標から「みせん」の頂上までの距離を示していることであろう。
 「みせん」とは弥山と書き、出雲大社の東方にある標高506mの山で、その山頂には大国主神を祀っている弥山神社がある。
 人々は何のために506mの山頂にある弥山神社に出かけたのだろうか。弥山神社では、毎年6月の晦日に、その年の五穀豊穣をお祈りする祭りがある。この祭りは「水無月祭り」と呼ばれ大勢の参拝者があり賑わっていた。その参拝者のための道しるべとして、道標は設置されたもと思われる。
 以前の「水無月祭り」には、近郷近在はもとより、遠くは八束郡、大原郡からも参拝者があり、頂上の広場には、早く登った人々が毛布などを敷いて場所取りをし、かなり下まで満杯になったという。
 弥山頂上では阿須伎神社の錦織宮司により、おごそかに祭典が執り行われ、そのあとはお神酒を戴き、盛んにのど自慢を披露して、夜の更けるのも忘れて大いに賑わったそうである。今は廃れてしまった。


<稲佐浜の養神保壽の石碑>

養神保壽の石碑
 稲佐浜の潮掻島近くの元水族館跡(プール跡かも)に養神保壽の石碑がある。昔は、水際はこの近くまできていたが、今では砂に埋まり昔の面影はない。この石碑の右手奥に道路を挟んで民宿の関屋がある。昔はこの近辺には、旅館などの宿泊施設が並んでいた。
 明治になると欧米より海水浴による医療効果が移入され、全国的な海水浴場開設ラッシュとなった。今でこそ海水浴は、スポーツ・レジャーの一つであるが、もともとは病気治療のために始まっている。このような時、いち早く海水浴に注目した元陸軍医監松本順が、医師の立場で各地に海水浴場の設置を提唱していた。(松本順は、民間の公衆衛生の啓蒙に熱心であり、牛乳の飲用や海水浴を奨励したことで知られていた)。おりしも、松本が明治21年山陰地方を歴訪した際に大社に立ち寄り、稲佐の浜を観察したのがきっかけとなり、この浜が遠浅で眺望絶佳であることから海水浴場の設置を推薦した。これを受けて、地元の医師石部元順は、西山関一朗の協力を得て明治21年海水浴場を開設した。これが島根県で最初の海水浴場となった。「海浴」の効能として、神経痛・腰痛・不眠・食欲不振などの効能ある42の病名が列挙されている。
当時は、診療所、海水温泉場が設置され、石部・西山両医師により病気治療の指導が行われていた。宿泊施設としては養神館があり、他に旅館として保寿館などがあった。海水浴場そのものが珍しかった上に、立地条件が稲佐浜の聖域にあることや、海水浴場の呼びかけ人が陸軍の元軍医総監であったことも人気の呼び水となった。養神館には、ヘルンが度々訪れ海水浴を楽しんでいる。明治34年夏の4度目の来町では約1ヶ月滞在している。他に田山花袋、武者小路実篤、与謝野鉄幹・昌子夫妻、大町桂月、阿部知二など多くの文人墨客も来遊している。
 大正時代には、山陰海岸を代表する海水浴場と評価され、学校の夏季臨海学校をはじめ、日本赤十字社の児童保育所や公・民間諸団体の定期訓練所の指定地となった。そのために、毎年夏になると県内から多くの子供や大人たちがこの浜に押し寄せることとなった。子供達の共同宿泊は杵築西尋常小学校が定番で、大人たちは旅館や宿泊所で泊まった。そのために稲佐浜は料亭や茶屋、貸座敷ができ、これから約半世紀の間、盛況になったという。その名残の石碑が稲佐浜の片隅にひっそりと佇んでいる。
 神迎浜、国譲り神話、夕日の聖地そして県下第一の海水浴場と稲佐浜には話題は尽きない。


<遥堪阿部知二の文学碑>

阿部知二の文学碑

 遥堪の弥山登山口と湖北線が交差する交差点に阿部知二の文学碑がある。この場所には江戸時代関所があり、菱根関屋といわれ関根松は大社八景のひとつに数えられていた。
 古くから菱根には、出雲大社神領の東の入口として関所が設けられていた。京保2年(1717)の「雲様詩」に「山頭に老松5株あり。関屋の松という。由来知れず、側に石地蔵あり」と記されている。この石地蔵が、慶長年間の洪水で上方から流され、湖底に沈んでいたのを、“夢さとし”によって拾い上げられたという。これを“関屋地蔵”といい、この北方の道沿いに安置されている。という看板が掲げられている。今は看板があるのみ。
 その看板の奥に阿部知二の石碑は建てられている。石碑には次の碑文が刻まれている。

 自然の中に美しきものを探り
 人間の中に善きものを求める
          阿部知二

 阿部知二は、明治36年(1903)6月26日岡山県勝田郡湯郷村中山(現美作市中山)に生まれた。同年4月に父良平が鳥取県立第2中学校(現米子東高校)に奉職していたことから、母に伴われ兄と共に生後60日で湯郷村中山を離れ米子に移った。しかし、米子に居たのはわずか一年で、明治37年4月20日、父良平が島根県立第3中学校(現大社高校)教諭になり一家は大社に転入した。
 後に小説家・評論家・英文学者となる知二は、幼少期を遥堪村と杵築町で9年間過ごしている。小学校は遥堪村小学校に入学したが、一年と少しで杵築町小学校に編入、一家は杵築中学校寄宿舎に移り住むことになった。
 阿部知二先生文学碑建設趣意書によれば、知二の文学的業績について次のように述べています。
 東京帝大文学部英米文学科卒業後は、文化学院・日本大学・東北大学などで教鞭を取られ、傍ら文筆活動もなされ、その創作は有名書店の文学全集に必ず収録されて、天下の知名作家となられたことは、我々郷土の誇りとする処であります。私たちは茲に、明治百年(昭和43年)を記念し、大社町の郊外の一角に先生の文学碑建設し、其の御功績を伝うる事を企画する光栄を得ました。先生のお送り下さった歌に、「ふるさとの 山べの空に しら雲の 流るる見れば こころ静まる」があります。弥山にかかるしら雲 知二」があります。それは先生の胸に今も往来するイメージにちがいありません。
 文学碑が建設されたのは、昭和43年11月3日の文化の日でした。先生が逝去されたのは、それから5年後の昭和48年4月23日のことです。享年69歳でした。


<大鳥居>

宇迦橋北詰の大鳥居
 宇迦橋にある大鳥居は、大正3年(1914年)に完成した出雲大社への「関門」ともいうべき宇迦橋の北詰に新たに大鳥居が建設されることになった。邑智郡出身で小倉で成功した実業家・篤志家の「小林徳一郎翁」(1870―1956)は、大正4年(1915年)11月の大正天皇の即位大典に合わせ、新たな大鳥居を建立・寄進することを決意する。同年9月に従者を引き連れて大社に参拝した後、新たな大鳥居の位置を宇迦橋北詰に定め工事を開始した。
 小林徳一郎翁と出雲大社との関わりは、大正2年に大社教官長・千家尊福が小倉を訪れた際、小林翁が宿を提供したことが直接的な契機となった。翌年に帰省した小林翁は、郷里の人々に相談し、「後世に残るような社会事業」として、櫛稲田姫神社の造営事業と共に、大正天皇の即位式典にあわせ、新たな大鳥居を建立・寄進することを決断する。大社では、それまで一般からの鳥居奉納は受け付けないことになっていたが、小林翁の信仰心の厚さと、千家尊福との縁を踏まえ、特別に申し出を受け入れた。
当時としては日本一の高さ約23m、柱周り約5.5mの新たな大鳥居(一の鳥居)が、勢溜の大鳥居(二の鳥居)を真っすぐに見通すことのできる宇迦橋のたもとに姿を現し、頂部には千家尊福の筆になる扁額が掲げられた。
 11月の落成式には、県知事を筆頭に公式参列者、さらに、一般参列者合わせて約2千人が集まり、盛大に挙行された。
 このときまでに勢溜から堀川までの道の命名を依頼されていた千家尊福は、落成式に臨む道すがら、宇迦橋に立ち、北方を眺めながら、「神門通り」と命名したとされる。
 この神門通りの両側に、「小林徳一郎翁」の寄進による松並木が植えられたことで、出雲大社の「境域」あるいは「神苑」を拡張したような景観的効果が得られ、新たな参詣道が完成することになった。
奇跡の松:神門通りの松は、大鳥居が造られた時寄贈され植えられて約100年が経ちます。道路沿いに植えられたため根が張らず(松は枝先3倍に張るといわれています)100年経っても大木になっていません。この松が何故「奇跡」といわれるか。戦時中、灯火用として松ヤニを採取するのに大きく皮を剥いだにも拘らず枯れずに今も生きているのが「奇跡」だそうです。この100年松は現在48本残っているそうです。





問い合わせ先 近畿・大社会事務局 山崎 素文 090-9057-4089
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