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日本人の源流 斎藤成也(国立遺伝学研究所教授)

 東京いずもふるさと会の岡垣克則会長が、「国譲り」の出雲神話から出雲人の方が大和人より先にいて日本を支配していたから国譲りを迫ったに違いないという発想を、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授に話され、斎藤先生御自身が古代日本に大変興味をお持ちで、出雲人のDNA分析という運びになりました。その分析調査で新たな発見があり、それが書かれている斎藤成也教授著書「日本人の源流」から極一部を抜粋して掲載しました。国津神と天津神の悠久のロマンの世界が見えてきます。

<出雲ヤマト人のDNAデータの衝撃>

 理化学研究所が調べた7000名の日本人には、なぜか中国・四国地方の人々がはいっていなかった。さいわい、数年前に出雲地方出身のあつまりである東京いずもふるさと会から、国立遺伝学研究所に彼らのDNAの調査依頼があり、わたしはの研究所に話がきた。
 出雲は中国地方の一部であり、ねがってもない話なので承諾し、さっそく研究がスタートした。東京大学医学部の徳永教授の協力を得て、東京いずもふるさと会の21名から血液を採取し、DNAを抽出した。
 その結果は、目を見張るものだった。出雲が含まれる山陰地方は、地理的に朝鮮半島に近いので、人々のDNAも関東地方の人々より大陸の人々に近くなるのではないかと予想していたのだが、そうではなかった。わずかではあるが、むしろ関東地方のヤマト人のほうが、出雲地方のヤマト人よりも、大陸の人々に遺伝的には近かったのである。
 しかもこの分析結果を持ってきたティムがさらに衝撃的な点を指摘した。出雲ヤマト人は、東北地方集団と似ているというのだ。
 私はただちに小説「砂の器」を思い出した。原作者である松本清張は、出雲地方の方言のアクセントが東北地方のそれと似ているという日本方言学の成果を、事件解明のヒントとしてこの小説に使っているが、DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきたのだ。

<出雲ヤマト人と東北ヤマト人の関係の謎>

 DNA分析から東北地方のヤマト人とオキナワ人との共通性が発見されている。東北、出雲、沖縄。これらをめぐる共通性とは、いったいなんなのか? これらの共通性は、もはや「縄文」と「弥生」に象徴される二重構造モデルでは、説明することができない。
 出雲といえば、思い出されるのが出雲神話だ。出雲神話においてもっとも重要な登場人物は、オオクニヌシだ。国ゆずりによって、アマテラスらの天津神あまつかみ(天から下った神)にしたがうことになった国津神くにつかみ(国土に土着する神)の代表である。今回、現代に生きる出雲人のDNAを調べた結果、彼らは国津神の子孫ではないかと思うようになった。だとすると、天津神はどのような人々になるのだろうか。
 今回の調査は出雲ヤマト人21名だけにもとづく結果だったので、もっと人数を増やすべきだと考えた。そこで、東京いずもふるさと会の岡垣克則会長らの協力を得て、島根県出雲地方出身者のDNAを調べることになった。2014年10月に岡垣氏とともに羽田空港から米子空港に飛んだ。出雲大社の大遷宮もあり、出雲空港に到着するフライトが満席だったので、米子にいったん降りたあと、出雲に鉄道で移動したのである。
 DNAの採取に関して、祖父母共出雲地方出身者に限定していたので、そのような方々が多数参加されている、荒神谷博物館での読書会の日にうかがった。多数の著書があり、現代のオオクニヌシともよばれる藤岡大拙氏らの協力を得て、多数の方からDNA抽出の唾液の提供を受けた。
 このあらたな出雲人DNAを調べたが、最初調べた21名の倍以上にあたる45名を用いても、前回とほぼ同じ結果が得られた。やはり関東ヤマト人の方が、出雲ヤマト人よりもすこしだけ大陸に近いという結果が得られた。
 出雲を含む中国地方からみると、もっとも近縁なのは東北地方だった。中国地方に地理的に近い九州、四国、近畿よりも、もっと離れた東北地方との遺伝的近縁性がみいだされたのである。
 こうなるとますます、中国地方に含まれる出雲と東北との遺伝的関連性が強まってくる。現代東北人はエミシの子孫であり、エミシはアイヌ人の祖先集団が東北から北海道に移ったあとにひろがったと考えられる。ということは、エミシと出雲はつながっていることになるではないか。

<ヤポネシアへの三段階渡来モデル>

 第一段階 約4万年前〜約4400年前(ヤポネシアの旧石器時代〜縄文時代の中期まで)
第一波の渡来民が、ユーラシアの「いろいろな地域からさまざまな年代に、日本列島の南部、中央、北部の全体にわたってやってきた。特に1万2000年ほど前までは氷河期であり、現在浅い海となっている部分は陸地だった。主要な渡来人は、現在の東ユーラシアに住んでいる人々とは大きくDNAが異なる人々だったが、彼らの起源はまだ謎でる。途中、採集狩猟段階にもかかわらず、1万6000年ほどまえには縄文式土器の作成が始まり、歴史区分としては縄文時代が始まった。

 第二段階 約4400年前〜約3000年前(縄文時代の後期と晩期)
 日本列島の中央部に、第二の渡来民の波があった。彼らの起源の地ははっきりしないが、朝鮮半島、遼東半島、山東半島にかこまれた沿岸域およびその周辺の「海の民」だった可能性がある。彼らは漁労を主とした採集狩猟民だったのか、あるいは園耕民だったかもしれない。第三段階で渡来する農耕民とは、第一段階の渡来人に比べると、ずっと遺伝的に近縁だった。第二波渡来民の子孫は、日本列島の中央部の南部において、第一波渡来民の子孫と混血しながら、すこしずつ人口が増えていった。一方、日本列島中央部の北側地域と日本列島の北部および南部では、第二波の渡来民の影響はほとんどなかった。

 第三段階前半 約3000年前〜約1700年前(弥生時代)
 弥生時代に入ると、朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から、第二波渡来民と遺伝的に近いが少し異なる第三波の渡来民が日本列島に到来し、水田稲作などの技術を導入した。彼らとその子孫は、日本列島中央部の中心軸に沿って東に居住域を拡大し、急速に人口が増えていった。日本列島中央部中心軸の周辺では、第三波の渡来民およびその子孫との混血の程度が少なく、第二波の渡来民のDNAがより濃く残っていった。日本列島の南部(南西諸島)と北部(北海道以北)および中央部の北部では、第三波渡来民の影響はほとんどなかった。

 第三段階後半 約1700年前〜現在(古墳時代以降)
 第三波の渡来民が、ひきつづき朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から移住した。日本列島中央部の政治の中心が九州北部から現在の近畿地方に移り、現在の上海周辺にあたる地域からも少数ながら渡来民がくるようになった。それまで東北地方に居住していた第一波の渡来民の子孫は、古墳時代に大部分が北海道に移っていった。その空白を埋めるようにして、第二波の渡来民の子孫を中心とする人々が北上して東北地方に居住した。日本列島南部では、グスク時代の前後に、おもに九州南部から、第二波渡来人のゲノムを受け継いだヤマト人の集団が多数移住し、さらに江戸時代には第三波の渡来民の人々もくわわって、現在のオキナワ人が形成された。
 日本列島北部では、古墳時代から平安時代にかけて、北海道の北部に渡来したオホーツク文化人と第一波渡来民の子孫のあいだの遺伝的交流があり、アイヌ人が形成された。江戸時代以降は、アイヌ人とヤマト人との混血が進んだ。

 三段階渡来モデル 日本列島を大きくとらえると、北部のアイヌ人と南部のオキナワ人には、タマト人と異なる共通性が残っており、この部分は、新・旧ふたつの渡来の波で日本列島人の成立を説明しようとした「二重構造モデル」と同一である。二重構造モデルでひとつに考えていた新しい渡来人を、第二段階と第三段階にわけたところが第三段階モデルである。このため日本列島中央部のヤマト人に限っていえば、「うちなる二重構造」が存在しているところにある。
 日本神話に登場する国津神と天津神は、それぞれ第二段階と第三段階の渡来人の象徴的な呼び方であるといえるのではなかろうか。二重構造モデルによれば、国津神は縄文系の人々ということになるが、国津神と天津神は、それほど大きな違いはなかったように思われる。考古学的データを神話に重ねあわせると、アマテラス以降の神話の世界は西暦ゼロ年前後のころに始まった可能性がある。
 この時代は弥生時代が始まってから1000年ほど経過しており、朝鮮半島や大陸の他の地域から、すこしずつ渡来人がきていたと思われるので、国津神と天津神の違いは、あるいは第三段階渡来人の多様性ないし、第二段階・第三段階との混血の程度の違いなのかもしれない。今後の研究が待たれる。

( 核DNAで解析でたどる 日本人の源流 斎藤成也著 発行所 渇ヘ出書房新社 )
<補足>
 荒神谷博物館での研究会への参加者は、東京いずもふるさと会、荒神谷博物館の講演会会員の内それぞれ有志40人ずつくらいの約80人が参加。解析はまだ継続中。最初のDNA採取は血液だったが、血液採取には医師免許が必要であり、荒神谷博物館では唾液の採取法となった。唾液がしっかり採取できず解析できなかったのもあり、最終的には何人分の解析ができたのか不明。(岡垣克則会長談)



  

問い合わせ先 近畿・大社会事務局 山崎 素文 090-9057-4089
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