神 話 の 出 雲 国・大 社 町
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2017年 第11回・東京いずもふるさと会 総会・懇親会
東京いずもふるさと会の会報から大社町に関するものを転記しました


ご挨拶 会長就任にあたって

東京いずもふるさと会 会長 岡 垣 克 則 (大社町出身)

 この度東京いずもふるさと会会長に就任いたしました大社町出身の岡垣でございます。大社町といいましても住まいはの番地は大社町杵築南1005番地でして町名では院内(後、本町に町名変更)でした。旧出雲街道に面したところで、子供のころは家の前を江南行の一畑バスが毎日数本走っていたのを覚えています。400年以上前の昔は、ここらあたりは出雲大社へのメイン道路で大祭礼や献穀祭などの時は参詣客でごった返ししていたようです。出雲大社さんは平成25年には大遷宮を迎えられましたが、60年前の昭和28年の大遷宮の時は中学一年で同時に神国博覧会が開催されたのを覚えています。二度の遷宮に巡り合えたのも人生の巡り合わせとしか言いようがありません。
 ときあたかも出雲は「日が沈む聖地出雲〜神が創り出した地の夕日を巡る〜」で平成29年度の「日本遺産」に認定されました。これに付け込むわけではありませんが、これを機会に次の段階に進んで挑戦してみませんか。それは世界遺産登録です。すでに日本の世界遺産は平泉、日光、富岡製糸場、古都京都の文化財、紀伊山地の霊場と参詣道など19に上ります。詳しくは述べませんが、元元世界遺産は単なる観光地ではなく、人類共通の財産・宝物として守り、未来に引き継ぐ必要があるものです。その趣旨からいえば、縄文・弥生・古墳の文化財にあふれる日本創始の国・出雲こそその名にふさわしいものと考えられます。
 さて、東京いずもふるさと会も平成19年(2007年)に第1回を開催して以来順調に回を重ね(東日本大震災の年は中止)、お陰様で今年で満10年を経過しました。これを基盤にこれからの10年を飛躍の年にしたく会員皆様方の絶大なるご支援、ご協力をお願い申し上げる次第でございます。肝心のわがふるさと会への抱負でありますが、500名に近い会員皆様を第一にしてより楽しい企画をを揃えて後援会、総会、お食事、お土産、アトラクション、会報発行、秋の行事等準備し、役員・幹事一同お待ちしておりますので知人・友人などをお誘いあわせの上お気軽にご参加ください。最後になりましたが、会員皆様方のご繁栄とご健勝をお祈りして就任のご挨拶とさせていただきます。
ご 挨 拶

東京いずもふるさと会名誉会長
出雲國造・出雲大社宮司 千 家 尊 祐

 皆様方には、平素より「東京いずもふるさと会」の運営等につきましては種々に亘ってご理解とご協力を賜り、厚く御礼を申し上げます。
 本会の活動を通じて故郷を同じくする人々が、良きご縁を戴かれて今にありますことに、心よりお慶びを申し上げる次第でございます。
 故郷出雲を想い、出雲と東京との交流・親睦の架け橋として平素より多岐に亘るご助力を賜り、また郷土島根県の発展にご尽力戴いております事に敬意を表するとともに、感謝申し上げる次第でございます。
 皆様方に於かれましては、故郷出雲を離れて東京にて様々にご活躍の由、同郷人として誇らしく感ずる次第でございます。
 私たちが暮らす出雲市は、平成17年に二市四町が合併した新・出雲市、平成23年には斐川町を合併して現・出雲市へと生まれ変わりました。新市制の取り組みは、特に観光面に於いて国内外から興味・関心の高まりといった面で効果を見せており、出雲を訪れる旅行者は年々増え続けております。今春には、「日が沈む聖地 出雲」が日本遺産に認定され、今後一層の盛り上がりを見せるものと期待を寄せております。
 出雲大社では「平成の大遷宮」第二期事業が、皆様方からのお力添えを戴いて順調に進んでおります。今秋には、平成12年に顕現致しました古代十六丈本殿の心御柱を、境内宝物殿にて展示・公開する予定で準備を進めております。これまで皆様方より賜ったご助力に感謝申し上げます。
 東京でご活躍される皆様にとって、誇れる故郷、懐かしい故郷であり続ける為、微力ではございますが力を尽くしてまいりたいと思います。
 私達の故郷出雲が日本の歴史上に重要な役割を果たしたことは、素戔嗚尊による八岐大蛇退治、大国主大神による国造りに国譲りといった神話からも良く知られるところであります。或いは、出雲大社の境外摂社神魂伊能知奴志神社(命主社)境内地より出土した銅戈・硬玉勾玉は、前者は九州北部、後者は新潟県糸魚川にルーツを持ち、弥生時代前記には出雲を基点とした交通・交易網が日本列島に起きていたことを想起させてくれます。それに伴い、出雲を「神話の故郷」、「日本人の心の故郷」と呼ぶことも増えているように感じます。同郷の者だけでない、全ての日本人にとって拠点となれる場所として、今後の故郷の発展を祈念しております。
 結びにあたり本会の益々のご発展と、会員の皆様方の愈々のご健康をお祈り申し上げ、お祝いのご挨拶とさせて戴きます。
第11回東京いずもふるさと会総会特別講演
「出雲と大和」−邪馬台国と大和朝廷ー」

国際日本文化センター名誉教授 村 井 康 彦

 4年前、「出雲と大和ーー古代国家の原像をたずねてーー」(岩波新書)を出しました。かねてから古代史(文学でも)で出雲が取上げられる場合、もっぱら大和王権(朝廷)への隷属が指摘され強調されることに疑問を抱いておりましたので、出雲の存在とその役割をもっと重視するよう求めたものですが、なかなか認知してもらえないようですーー。
 重視したのは、国家意識の高揚期に国家的事業として編纂された国史=「日本書紀」のなかで、氏族たちは自分らの国がどのような過程で形成されたとみていたのか、という点でした。結論を申せば、大和王権は大和に自生したものではない、大和にはそれ以前、出雲の勢力が存在していたこと(=葦原中国の中枢であった)、という事実でした。これが、「魏志倭人伝」を読み解く上で大きなヒントになったことはいうまでもありません。
 私がもっとも重視している邪馬台国の「四官」について、「魏志倭人伝」にはこうあります。

邪馬台国に至る。(中略)官に伊支馬あり、次を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳テイ(革に是)という。

 よみ方はともかく、四つもの官があったということは、一つしかなかった他の国と違い邪馬台国は格段に大きかったことを示してします。これは素人にも分かることなのに、どうしてこれまで気付かなかったのでしょうか。そして(よみ方などの検討は省きますが)検討した結果導きだせたのは、イコマ、ミマス、ミマキに囲まれた中央のナカトに邪馬台国の女王、卑弥呼の王宮はあった。−−。現在の奈良県田原本町で、そこにあった唐古・鍵遺跡の再検討が望まれるところです。
 四官の登場はそれにとどまりませんでした。王宮を取り巻く三官の地域に盤居していたのは、物部(イコマ)、鴨(ミマス)・大神(ミマキ)氏という、いずれも大国主神を祖神と仰ぐ出雲系の氏族でした。ということは、邪馬台国は出雲系氏族によって立てられ、支えられたクニであった、ということになりましょう。この結論はわれながら驚きでした。
 「魏志倭人伝」から導き出されたのはこの結論(邪馬台国は出雲系のクニ)は、最初に見た「日本書紀」の記述ーー大和王権が入る以前、大和には出雲系氏族の勢力(葦原中国)の中枢があった、というーーにそのまま重なり合って来るのではないでしょうか。
 じつは「日本書紀」の編纂者たちは「魏志倭人伝」の存在を知っており、「神功皇后紀」には卑弥呼の業績を3ヶ所、引用しているのですが、卑弥呼の名を出すことはついにありませんでした。卑弥呼は、神功皇后でなかっただけでなく、大和王権の皇統譜にのらない、大和王権(朝廷)とは無縁の存在だったからです。してみれば邪馬台国と大和朝廷はつながらない、両者は別個の存在だったのです。
<会報出雲に記載の記念講演要旨から抜粋>
出雲大社「昭和の大遷宮」の頃・・・

糸 賀 正 浩(大社町出身)

 父は大日本帝国海軍の潜水艦乗りでした。姉と僕は呉市で生まれました。当時の戸籍謄本の写しを持っています。日増しに戦局厳しくなった誕生日前、祖母に背負われ姉と共に「故郷に帰り」ました。約18年間を大社町で過ごしました。終戦後の数年間ですが、約200メートル程の坂道を下った海岸に「塩田」があり、出来た塩を背負って山里の米と交換したのだそうです。幼い僕が塩田を裸足で歩いた話を父母からよく聞かされました。
 出雲大社の「昭和の大遷宮」はそれから僅か5〜6年後、生まれて初めて見聞きする大きな経験でした。三木まさ先生の話に興味津々だった僕等は、大社小・西校舎の3年でした。6年間を東校舎・西校舎半々に通う状態は、元々別の小学校だったのが、町村合併により生じたものでした。1年生時、東校舎への通学は、毎日が出雲大社に参るような遠足のような距離でしたが、徒歩の他になく「超ざいご」の証でした。しかし、すぐ西に日本海、南の堀川の先には広大な「湊原」の畑が広がる農・林業、漁業が大半の赤塚の暮らしには、「奇妙な明るさ」があった気がするのは、赤塚荒神社等の祭り、「町内会」や「隣保会」や「塩釜講」等の集いの他に、町内の路地裏での映写会等が時々行われた故だろうと思います。また、食べるものに余り困らなかった為ではないかと思います。
 そんな中での「昭和の大遷宮」行事が、丸々5月1ヶ月以上も賑やかに続きました。祭りの前には、出雲大社まで歩き、本殿の中の敷石の間の草取奉仕等も皆で行いました。祭りが始まると、外苑での「神國博覧会」を楽しみました。また、勢溜広場には「木下サーカス」を始め色々な見世物小屋が並び、神門通りや参道の両側の露店等と共に大賑わいの別世界でした。中で、小学生には絶対禁止の「人魚小屋」もありましたので、神楽殿や祖霊社での神楽は必ず見ました。佐草山での滑り台遊び等に時を忘れて興じた中で、五月蠅かった外苑の「お富さん」の唄が耳底に残っています。中学校相撲大会中もずっとかかっていたのでしょうか? 週に一度は出雲大社に参った気がしますが、小学生には「出雲大社」は、言葉の真の意味での『エコシュライン』である」と知る由もなく、遥か60年後の「平成の大遷宮」時に質問して気付きました。
 今年も春の大祭礼の翌日、元気で誕生日を迎えることが出来たことに感謝しつつ、「往時茫々夢の如き」日々を振り返りました。
日御碕海岸の景色の昔と今

神 谷 利 子(大社町日御碕出身)

 桜の開花を愛でつつの出雲ふるさと会は、ここかしこから聞こえるお国訛の騒めきの中で懐かしい出雲の味を楽しみに出席して居ます。
 私は、昭和8年、日御碕村で生まれました。現在の鎌倉に住むようになってもう60年近くなります。
 何年前だったか、実家に帰る稲佐の浜からミサキに向かう景色になんとなく違和感を覚えました。辺りの山がやけに低く見え、名勝筆投島を見て驚きました。島の上の松が無いのです。松喰虫の仕業だそうですね。鎌倉の山は落葉樹が多く秋の紅葉は美しいのですが、松の多い出雲は築地松を始め年中緑の山並みが変わりなく美しい景色です。昨今は燈台にホテルも出来、昔とは隔世の感があります。
 日御碕神社の近く美しい清江の浜があり、沖に突き出た平岩と呼んでいた岩場に僅かに潮の干満がり、子供達にとって自然の海の生物教室でした。ヒトデ・磯巾着・海牛・ウニ等々。飽きる事の無い遊び場でした。今はその岩場の上に大きな堤防が乗ってしまい、小石の浜は一面コンクリートで覆われてしまいました。
 車社会になり舟も大型化し、生活者にとって便利であることは重々理解出来ますが、いささか忸怩じくじたる思いがします。東北地方の津波除けの他界堤防で海を遮られた人々の気持ちも、さんだか察しられる気がします。これは理屈ではなく、なんとも形容のない喪失感を覚えるのは我儘でしょうか。
 老いて帰郷の機会が遠のくと、想い出されるのは昔のひなびた景色です。しかし、変わらないものもあります。海猫(かもめ)の繁殖地で有名な経島、此の島は単なる海猫の島でなく、数々の神話に語り継がれた神の島です。此の島の沖に沈む大きな夕陽、群れ遊ぶかもめ、漁から帰る漁船のシルエット、もうこれは一幅の絵です。ふるさとはほんとうに良いものですね。
アトラクションの石見神楽


 

問い合わせ先 近畿・大社会事務局 山崎 素文 090-9057-4089
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