三木与兵衛翁と菱根池
江戸時代の初め、斐伊川がほとんど東流するようになり、菱根周辺は菱根池跡の大きな湿地帯となっていた。ここを新田開発することは堀尾藩の至上命題であった。
出雲市小山の名家、三木家はまず小山村公文職(庄屋のような職)に任じられ、続いて菱根周辺の開発の肝いりに任じられ、以後四代30年にわたり開発に取り組んだ。
最初に湿地帯の水(悪水)を抜くため、鑓が咲ケア浜(菱根字鎗ケア附近)より、元和2年(1616)、堀貫川(現在の吉川排水路あたりと思われる)を日本海まで通し、新田5カ村(菱根・入南・江田・八島・浜)ができた。
しかし、寛永10年(1633)洪水で堀貫川が埋まった。それでも吉川筋や荒木川(現内藤川)あたりを掘りつづけるがうまくいかなかった。そこで、弥山に登り山頂から眺め、乙見山の丘陵を切断することを決意し、寛永17年(1640)堀川工事に着手、途中没したが、次の代の加兵衛が難工事を完成させた。
続いて排水路(古内藤川、高浜川)を整備し、一連の工事完成によって、政保2年(1645)新田5カ村が本村となった。
三木与兵衛らによる菱根新田開拓の偉業は、単に新田5カ村にとどまらず、遥堪、修理免さらには北荒木、杵築と広い範囲に及び、その恩恵を今に受けている。
「高浜川」は、北山一帯の谷川の水を集め東から、「古内藤川」は浜山の東側を南から流れ、2つの川は鎗ケア附近で共通の中土手を持って合流し堀川と呼ばれている。また、下流部では場所によって大川とか原川、神光川、馬場川、流下川などと呼ばれている。
三木与兵衛が開削さいた当時の堀川には、中土手にいくつかの水門が設けられ、洪水調整が行わられていたが、水争いも多く、現在は水門もなくなり、中土手もコンクリートになっている。
菱根池とその周辺は『出雲国風土記』(奈良時代)にも記載がなく、古代か中世にかけてどのような状態であったか確かな記録はないようである。
しかし、菱根の故上野良一は石塚尊俊との共著『出雲平野の開拓ー三木与兵衛の偉業』の中で、菱根池について次のように述べている。
『斐伊川史』では『絹本著色出雲大社并神郷図』(鎌倉時代)より、大菱根池跡が漸次開拓され、(池)残りの部分が4つの離れ島のごとく点描されている。最北にあたるものが入南、次が八島、次の二つが浜村であろう。また、『大社町史』では、その全体が一個の池ではなく、いくつかの集合体として描かれている。
この地域一帯は低湿地で、菱根池というのも、これらいくつかの池を含む低湿地全体を指して呼んでいたと考えるべきであろう。
大社最古 菱根遺跡
出雲大社から東へ約1.5キロメートルの山手旧道沿いにある縄文早期(6000〜7000年前)のもので、現状では大社最古の遺跡といわれている。
昭和26年(1951)に発見され、昭和29年(1954)同志社大学調査団等によって、表土約2メートルの地点から縄文土器、石器、骨角器、鳥獣骨、魚類骨片、人骨片等が出土している。
当時の島根半島の西端部は、日本海に向け現在の宍道湖、中海に連なる大きな入江が広がり、日本海に浮かんだ島の様相を呈していたという。遺跡の様子から縄文人たちは、北山からの「山の幸」、日本海の外海、内海がもたらす「海の幸」の双方に恵まれ、共同でクジラ漁を行うなど活気あふれる生活を送っていたことが想像に難くない。また、黒曜石製の石器が発見されたことで、黒曜石の一大産地であった隠岐の島との活発な交易の様子も分かる。
「ヤノンバ遺跡」ともいわれ、出雲地方では最も古い段階の遺跡で、山陰地方での縄文早期終末の代表的な遺跡とされている。
島根ワイナリー
菱根上町内の国道431号沿いに昭和61年(1986)3月にオープン。昭和34年にできたワイン製造工場を県経済連(現在は株式会社)が移転新築されたものである。
ワイン醸造の展示場、試飲・即売場などのほか、バーベキューハウス、多目的ホール、野外テントハウスなどを併設した「シャトー弥山」があり、南欧風の外観で統一され、ステンドグラスの飾り窓があるしゃれた建物である。
家族連れや観光客で賑わう観光スポットとなっている。
菱根稲荷神社
菱根中町内の旧道から階段を上がったところにある。ケヤキ、イチョウなどの大木に囲まれたこの社の主祭神は倉稲魂命であり、境内に社日碑、荒神さんなどもある。
また、社伝によれば、古くは上の的場山にあったが、慶長年間に洪水とともに崩れ、再建されたものを寛永21年(1624)に現在地に移転したという。
阿部知二文学碑
安部知二は、昭和中期の小説家・評論家であり、岡山県勝田郡湯郷村に生まれ、菱根地区で幼児期を過ごした。小学校1年1学期まで遥堪小学校に在学、その後杵築に移り、小学校4年まで杵築小学校に通ったという。著書として小説『冬の宿』『風雪』などがある。
菱根河原谷川の国道431号脇に、昭和43年(1968)幼馴染であった人々が中心になり、文学碑が建てられている。
〇碑文
「自然の中に美しきものを探り
人間の中によきものを求める」
関屋松
菱根西町内の河原谷川西に、字に「関屋松」という地名がある。
古くから菱根には、大社神領の東の入口として関所が設けられていたという。享保2年(1717)の『雲陽誌』に「山頭に老松5株あり、関屋の松という。由来知れず、側に石地蔵あり」と記されているが、現在は、字名と近くに残る地蔵にその名残を留めるだけである。
かつて大社八景のひとつに数えられ、和歌も残されている。
〇関屋翠松 久世前中納言通夏郷
「ゆききをば とどめぬ関の
みどりなる 松や知る人
ここにやすらふ」
大社八景とは
歌僧であった明珠庵釣月が、当時、京で高名な公卿の詠んだ歌を享保13年(1728)に出雲大社に奉納したもので、「出雲大社八景」といわれている名所である。
大社八景は次のとおりである。
・関屋翠松 ・素鵞川千鳥 ・御碕山秋月 ・真名井清流
・出雲浦魚舟 ・八雲山晴嵐 ・高濱暮雪 ・社頭夜燈
河原谷共同井戸
菱根河原谷町内会には、明治7年(1874)に町内会で建設した共同井戸があり、常に蛇口から水が流れ、今も町内の洗い場・交流の場として親しみ、大切にされている。
昭和33年(1958)までは、弥山を源とする河原谷川の中腹から松の木をくり貫いた桶を利用し、町内各戸とこの井戸に配水されていたが、それ以後は、現在のような中途で大きなタンクに貯め、地中に埋めたパイプにより、昔と変わらない水の利用が行われている。
みせん通り
国道431号は、松江・平田から北山沿いに至る県道(湖北線)として昭和41年(1966)整備され、昭和56年(1981)に国道431号となった本町を東西に走る主要幹線道路である。
特に勢溜から東の田園風景が形作られた「昭和の干拓」というべき大事業であった。
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