浜山の今昔
江戸時代中期に高浜山(浜山)を115町歩(約115ヘクタール)にわたって植林し、砂防林を築くことに成功した功労者は「井上恵助」である。
当時の浜山は、砂丘地のため季節風が砂を飛ばし、付近一帯は荒地に等しかった。松江藩は、寛延3年(1750)から宝暦初年にかけて植林事業を試みたが、ことごとく失敗していた。恵助は、自ら浜山造林を志し、2年間の試植後、藩の許可を得て宝暦13年(1762)から本格的な植林事業に取り掛かった。事業は資金面・技術面で困難を極めたが、16年目の安永7年(1778)に完成させた。
この植えつけに要した材料は、松苗90万本、柳15000本、藻粕(斐伊川旧河川で腐食性土壌)15万4500荷などであったという。
その後、恵助の子孫が浜山の管理を任されていたが、大変苦労し恵助の孫にあたる井上清兵衛が文久2年(1862)に浜村庄屋五郎右衛門(入南長岡家六代)えお通して、郡役人に援助を願い出た文書がある。
要旨は次のとおり。
「浜山に手入れについて嘆願。近年風雨が激しく、大風で松が根返り、枯失したり、大雨で水砂とも流出し、一丈八尺位の谷ができ、浜裾の田畑へ流出し百姓難渋し、風下の数カ村の田地に影響が出ている。今後も浜山の砂防手入れに精をだしますので、どうか先年通り米20俵下されたくお願い申し上げます。」
浜山は藩有林であったが、明治に入り払い下げられ私有林となり、戦前は陸軍の演習場として使われていた。昭和30年代に入ると、大型農道(県道斐川大社線)が浜山を切り裂いて通り、最近では大社町分の大部分が県立の一大運動場や公園となっている。
入南水門(大水門)
入南と遥堪の境の高浜川に設けられている一般には「大水門」とよばれている水門がある。
高浜川の流量を調整し主に入南、菱根地区と遥堪地区の一部への灌漑用水を配水するために作られたものである。
江戸時代に設置されたものであるが、現在のものは昭和7年(1932)に竣工、さらに昭和35年(1690)に電動式に改修されたものである。
古い地図では、大字菱根の字「見ア」と接し、この地点は入南、遥堪、菱根の3大字の接点となっていた。
なお、「見ア」の字名は、土地改良の際になくなり、町名として残るのみで現在地は遥堪に接している。
入南橋
古くからの入南から山手に向かう主要道であり、遥堪小学校南の高浜川にかかる橋である。
昔は土橋で荷車がやっと通れる狭い橋であったが、昭和46年(1971)に現在のコンクリート橋となった。
この入南橋の南の袂に『是より北みせん通り23丁 村々寄進』と書かれた高さ80センチメートルくらいの道標がある。
1丁は約109メートルであるから、2507メートルということになる。旧道の杵築平田街道から弥山への行程を示したものであろう。
遥堪村役場跡
旧遥堪村役場跡1
明治22年(1889)に市町村制が施行され、遥堪村、菱根村、入南村、浜村の4カ村をもって遥堪村となり、役場を乙見神社前に設けられた。当時廃校になった入南分校跡を利用したものと思われる。
旧遥堪村役場跡2
明治33年(1928)、浜村は分離して高松村(出雲市)へ所属した。役場は入南町内の民家の一部を借用して昭和の初めまで続いた。現在は畑となっている。
旧遥堪村役場跡3
昭和3年(1928)の御大典を記念し、役場庁舎を入南字土手の高浜川沿いに新築移転した。秀峰弥山を仰ぐ格好の位置で、現JAいずも遥堪支店の用地内(土地改良完工碑の付近)に建っていた。
昭和26年(1951)に大社町として合併するまで、地域行政の拠点として重きをなし、合併後は連絡所として引き継がれ昭和34年(1959)の連絡所の廃止により姿を消した。
入南の乙見神社
入南中町にあり、主祭神は下照姫命(大国主神の姫御子)と大年神(五穀豊穣の神、農耕の守護神)を祀る。
『雲陽誌』の入南の項に「永禄3年(1560)中井駿河守綱家神田を寄附せり」とあるのを見ても、440年くらい前に勧請された神社である。
境内に「社稷神(社日さん)荒神さん、内務省と記された水準点(海抜2メートル)の標石がある。
入南に宮戸八軒と呼ぶ家がある。これは入南乙見神社の氏子で、入南に早くから入植した家で、乙見神社を祀り守ってきた家といわれている。
入南四橋
鑓ヶアの北東の高浜川と古内藤川にかかる橋が集中している所がある。古内藤川にかかる鑓ヶア橋、もとは「加茂屋橋」といっていた。土橋であったが、昭和7年(1932)にコンクリート橋になった。同じく古内藤川にかかる鑓ヶア橋大橋。そして高浜川にかかる楯石橋と上楯石橋の四つの橋である。ちょっと珍しい地点といえよう。
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