由緒ある阿須伎神社
阿式谷川を上っていくと、『出雲国風土記』にも見える歴史ある「阿須伎神社」がある。
主祭神は、阿遅須枳高彦根命(大国主神の子)である。『出雲国風土記』には、遥堪に39社の阿須伎社が記されているが、合祀されて今は1社になっている。
この社は、もとは西の谷の上方にあったが、慶長14年(1609)の洪水で流れ、現在の地に再建されたという。本殿は大社造りで高荘な建物である。境内社も多い。
また、町指定有形民俗文化財の「獅子頭」が保存されている。
戦国時代に戦乱から阿式社及び社領を守るため、毛利氏がそうそうたる重臣の名で次のような禁制を発布している。
<禁制 阿式宮>
右神社に諸軍勢や一般の者が乱暴、狼藉をはたらいてはならない。もし、この命令に背く者がいたら、厳しく罰する。
永禄13年卯月23日
小早川 隆景 福原 貞俊 口羽 通良 吉川 元信
荘厳寺
湯屋谷川の東にあり、ご本尊は快慶作と伝えられる千手観音である。約400年前に開山された曹洞宗寺院である。それ以前は、天台宗鰐淵寺の坊であったらしい。
天文年間(1532〜55)に5回の洪水があり、寺院が流出し、谷川の流れも変わって現在地に再建されていたが、昭和20年(1945)に宿泊していた軍隊の失火により全てを焼失した。
昭和36年(1964)に本堂を再建し、その後、順次建物を再建して今日に至っている。
蔵王権現
湯屋谷川を渡り、荘厳寺の裏山に入ると不老の滝、荘厳の滝などがあり、大岩窟の中に蔵王権現が鎮座されている。
願い事を全て叶えてくださると昔から人々に信仰されて、江戸時代の力士「雷電」の参拝の伝説もある。
蔵王権現祭りは、明治時代に行われていたが、大正時代に中止したところ、東西湯屋谷の若者が大散財をして、数件もの家が財産を失ったことがあった。
このため、昭和3年(1928)に復活して終戦後も数年続いたが、再び中断していた。
昭和57年(1982)に権現堂改築を記念して、古式にのっとり神事花、権現太鼓、権現の曲の横笛で祷練りを行うお祭りを再興した。
十能庵観音堂
花摘み町内の山手線の「あがりがくえん寺」の道標があり、200メートルばかり登ると「右がくえん寺、左ハ十能庵観音堂、北神門十ばん札所」と記された石標がある。
そこから左に上がると「十能庵観音堂」があり、南に開け、展望がよい。
蛇山城主・松井弾正宗則の山城「蛇山城」跡である。
松井弾正供養碑
松井弾正正守の居城「蛇山城」は、遥堪北山中腹にある。
松井弾正守宗則は、伯耆汗入郡霊山(鳥取県)にいた尼子の武将で、のちに遥堪蛇山城主にとなった。粟津(出雲市)に片寄筑前守という武将がいて、蛇山城の兵が少ない時をうかがい、東篠ア山から不意に城を攻め、弾正と長子の兵庫は戦ったが落城し、親子は捕われて粟津に送られた。
しかし、兵庫は特に勇猛で激しく反抗したため、親子とも殺された。今もこの地を弾正松と呼んでいる。このことは、やがて毛利の知るところとなり、弾正に非はなく「片寄不届き」と断じ、討手を差し向け、片寄は毛利の武将に討たれた。
また、弾正の次子・八郎右衛門はまだ幼く産着の中で泣いていたが、情けある者の計らいで女の子と偽り逃れて、この地で農業に従事した。
遥堪松井家は、その子孫であり蛇山の十能庵は松井弾正の霊を祀った寺である。現在も松井一族有志により、慰霊の催しが行われている。
谷山下の石碑
谷山谷の上り口の旧道脇に、天照皇大神はじめ、五柱の神名が記された大きな石碑がある。慶応4年(1868)6月と記されている。幕末から明治の初めにかけて社日信仰が流行したらしく、菱根、入南、鎗ケアにも明治の初めに社日碑が建立されている。
社日碑は春分と秋分の日に最も近い戊の日をさして、国土、大地の神を祀り、五穀豊穣を祈ったという。この日だけは土を動かしたり、山に入り木を切るなどの仕事を忌み休んだという。
土地改良記念碑などもある。
霊山寺
本堂前まで車でも登れるが、徒歩は石臼町内の旧道から101段の石段を登っていく。
本尊は薬師如来で天台宗鰐淵寺の末寺で、境内には中興の開山・頼山和尚のお墓がある。
近年、住職が亡くなり、庫裏は損壊し解体されたが、由緒あるお寺の姿を憂えて地元町内会の人たちの奉仕により、桜やもみじの植樹、東屋なども建設され「霊山寺公園」として整備されている。眼下の眺めもすばらしく、春は「桜の名所」として花見客が多い。
頼山和尚は、松江藩初代藩主直政の実母月照院と血縁があり、2代目藩主綱隆の家老職を務めていた。ゆえあって鰐淵寺に引退を命じられ、続いて霊山寺の住職となって寺の再興に努めた。その後二人の娘あてに「七種宝納記」という遺書を書いている。
これは、元禄時代の武家の教養、学問、芸能など多岐にわたり頼山の生き方を知る貴重な記録である。
矢田鶴之助
矢田鶴之助は、農業教育の大先達であったが、晩年郷里の遥堪に帰り、昭和21年(1946)居宅を公民館として開放し、遥堪公民館長となった。翌年には当時の遥堪小学校の一室を公民館とした。
また、私費を投じて公民館設備や図書館を充実に尽力し、県内では先駆けとなる公民館報の発行、各種講習会の開催、成人教育などを行い、公民館活動の基礎を作った人である。現公民館の前に顕彰石碑が建っている。
遥堪小学校
遥堪小学校1
明治5年(1872)の学制で、従来の寺子屋や私塾をやめ、村に小学校が設置されることになった。遙堪では、小川宅を借りて開学された。通学区域は菱根・遥堪であった。
遥堪小学校2
明治15年(1882)遥堪小学校の校舎が新築された。その位置は、旧郷倉のかたわらの旧道沿いに東西に長い敷地に建てられ、長屋学校と呼ばれていた。
遥堪小学校3
明治21年(1888)遥堪小学校舎は、東方に移転新築落成した。これは、入南分校を廃止したもので、昭和51年(1976)に現校舎に移転するまで87年間も続いた。
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地名あれこれ
石臼
遥堪地区の東端に「石臼」という町内があり、ここには大きな臼状の石が2個ある。
この石は、言伝えによると武蔵坊弁慶が鰐淵寺の鐘と大山の鐘を取り替えに行くとき、鰐淵寺かた袂に入れて持ってきたものであり、遥堪峠を越え、石臼をおいたことから、地名となったといわれている。
「堂間」と「佛田」
高浜川に架かる「堂間橋」という橋がある。
天文3年(1534)の大洪水に荘厳寺は流され本堂は堂間橋まで、また、御本尊の千手観音菩薩は、橋の北西150mの地(今も佛田という)に流されたということから、地名が生まれたといわれている。
長渡りと馬渡り
高浜川の堂間橋より国道431号の湯屋谷信号間の縄手(田の中の道)を「長渡り」という。
昔は、浸水していたので寛政6年(1794)不昧公お抱え力士の雷電為右衛門に荘厳寺裏の蔵王権現に参り、長渡りに出ると168キロの体重で動けなくなったといわれている。
また、長渡りの西方は、馬でないと渡れなかったので、「馬渡り」という。
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