旧大社駅
大社町の表玄関にふさわしく和風造りの駅舎は、全国でも珍しく拡張のある木造建築である。
明治45年(1912)に国鉄大社線の開通により開業され、大正13年(1924)2月に新たに改築された。駅舎は、出雲大社の門前町の表玄関にふさわしい純日本風の木造平屋建てで、中央屋根部分の両端の鴟尾、屋根の合掌部分に取り付けられた懸魚など和風趣向の際立つ建物である。設計者は当時の神戸鉄道管理局の丹羽三雄、監督官川久保嘉一、現場監督官が荒川稲美である。また、建築界の先駆者、伊東忠太が関与していたと思われるデザインが各所にあり、特に屋根の下がり棟の先端に、亀のいろいろな動きを模した瓦が使われているのは大変めずらしい。
JR大社線は、平成2年(1990)3月31日に廃止され、その後、旧大社駅舎は平成16年(2004)、国の重要文化財に指定された。
獅子舞
駅通り一区町内会の獅子舞は、町内の活性化を願って、昭和38年(1963)に平田市久多美の獅子舞を伝承、血清されたのが始まりである。しばらく続いていたが中断し、昭和55年(1980)の駅前稲荷神社遷宮の際に復活された。
この獅子舞は、町内の発展と商売繁盛を祈願し、大正時代に盛んに行われていた「伊勢太神楽に頭をかんでもらうと健やかに成長する」という言い伝えにちなんで、子ども達が明るく健康であるようにとの願いを託したものである。
舞者はすべて子どもが担当し、新年・元日に各家庭を巡回して人々の健康と繁栄をきがんするもので、駅通りの正月の風物詩になっている。
日光寺
中筋にある曹洞宗の日光寺の開山は、享保12年(1727)である。この地方が開拓された当時は、寺もなく、人々の心のよりどころがなかったので、大原郡飛石村(大東町)にある弘安寺の末寺の日光寺を現在地に移して信仰の場をつくったものである。
本尊は、釈迦如来。開山は禅山和尚。
風よけ観音さん
日光寺境内の観音堂は、日光寺開山以前からあったといわれ、当地方の強風を避けるため、人々の願いで建立されちたらしい。
別名「風よけ観音」といわれ、堂の中心に鎮座される観音像(聖観音菩薩)の左右には不動明王と弘法大師像が配置されている。
狐揬稲荷神社
日光寺境内にあり、日光寺開山と同時に当山の鎮守神として、」杵築の小土地にあった稲荷神社を移して祀られた。「狐揬」というのは「小土地」との関係をあらわしているといわれる。
川方地蔵
かつては、川方の四つ辻にあったが、一時日光寺の墓地に移され、さらに、昭和56年(1981)に現在地・川方生活総合センター敷地に移動・安置された。地蔵には安産地蔵、子育て地蔵など現在8体が祀られている。
戦前は、地蔵祭りも盛んで、地蔵の化粧などして、夜賑やかな百万遍数珠廻しなどが行われていたが、戦後しばらく途絶えていた。地蔵が再び川方に移動安置されたことを機に、以前ほど賑やかではないものの百万遍数珠廻しも復活され、最近では、子ども会にも呼びかけ伝統行事の継承と世代間交流が図られている。
北荒木層荒神社
上北西の境土手の南にある神社で、主祭神は、素戔嗚命、奥津彦命、奥津姫命である。
貞享4年(1687)、大梶七兵衛から松江藩に当地の守護神として神社創立の願いが出され、許可を得て建立されたものである。
荒神社の祭りには、当番町内がわらで龍を作り、それを担ぎ町内を練り歩き安全を祈った後、神社に奉納し、神木に巻き付ける「龍蛇の山上り」という神事がある。
いなさ会館
明治建築の粋を集めた講堂(旧大社中学講堂)を、杵築の鹿城ケ丘から浜山の大社高校の現在地に移転・復元したものである。
現在「いなさ会館」と称し、旧制大社中学校・女学校・現高校100年の校史、資料が展示されており、歴史を感じることができる建物である。
浜山運動公園
荒木地区東一帯に広がる浜山は、出雲市浜町出身の井上恵助翁によって、安永7年(1778)防風林として植林された広さ約115ヘクタール、90万本が植林された松林である。
この山の北部分に、昭和49年(1974)に県立の野球場がオープン。平成4年(1992)には、コート16面を持つテニス場、さらに、平成14年(2002)から北川一帯に、新しく県立体育館(カミアリーナ)、陸上競技場、サッカー場などが整備され、各会場は公式競技がいつでも利用でき、まさに島根県のスポーツ振興の中心地となっている。
また、運動場周辺には、子どもの遊園地や散策路もあり、家族ぐるみで楽しめる憩いの場である。
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地名あれこれ
駅通り
明治45年(1912)国鉄大社線の開通に伴い、他社駅から出雲大社への参詣道ができるとともに急速に発展したところで、「駅に通じるみち」ということから、ごく自然に「駅通り」といっている。
大社駅ができるまでは、住居もほとんどなく、あたり一面の桑畑と田んぼがみられるほどの淋しい場所であったといわれる。それが大社線開通によりたくさんの商店や旅館が開業され、一挙に賑やかになった地域である。
中筋
文久元年(1861)に記録された神門郡行政区画図を見ると、現在の出雲市から大社町杵築に至る広い範囲が「中筋」と記されている。
また、「出雲国神門郡誌」には、中荒木の中央部に中筋という字地もある。そして、現在の中筋と中筋南町内は北荒木と中荒木にまたがり、荒木地区の中央部を占めている。
このように、中筋という地名は、その地域の中央点、真ん中を意味していて、当時の農業(米作り)の中心的な場所を示している。
思案橋
現在の荒木小学校南東の四叉路となっている場所で、小さな用水路に人がやっと通れる板橋がかかっていたが、この橋を「思案橋」と呼んでいた。
この橋の名前については、川方や四軒家方面に嫁いでいた若嫁さんが、農作業の辛さに耐えかねて、実家に帰る途中、kの橋まできて実家に帰るべきか、もう一度思い直して嫁家へ戻るべきか、思案にふけったということから、「思案橋」といったと伝えられている。
川方
貞享4年(1687)高瀬川が開削されると、川輸送が始まり、川方の活躍が盛んになる。享保5年(1720)に川尻に川方役所ができ、まとまった集落ができた。これをいつしか「川方」と呼ぶようになり地名になったらしい。
西境地山
川方の西の県道大社日御碕線「桃山トンネル」付近は桃山といっているが、小高い丘は修理免、北荒木、中荒木、杵築西の大字境が集中する位置にあることから「西境地山」と呼んでいたと伝えられている。
上北
北荒木の北東、駄馬線を挟んで両側に拡がる地域を「上北」という。「上北」は江戸時代から明治中期に定められていた北荒木の「上分」の地域にあることからその名が生まれたらしい。この地域は、荒木浜開拓以前、西風の強い砂丘地で、農作物の栽培もままならず、高瀬川開削以降の水路作成のお陰で開拓が進み、徐々に住居ができたところである。中でも境土手に面する地域に早く住居ができたらしい。
境土手
「境土手」は現在の修理免と北荒木の境界であり、貞享2年(1685)、当時の執政職・平賀縫、岩崎佐久次が藩領地と社領地を明確にするために土手を作り、松を植えて境界を明示したことからいわれている。
なお、修理免は社領地であった。
御成橋
荒木地区の道路に「御成橋」といわれる道がある。
現在の北荒木総荒神から小田川歯科医院の横を通り、エルの南側から神門中筋線を横切って高瀬川にいたる直線道である。
名前が御成道といわれるのは、江戸時代、松江藩の役人が、この地域の租税の上納基準を決めるため、農作物の出来具合を見て歩いた道で、役人が「御成り」になることから、この名前がついたといわれている。
なお、荒木地区には、このうような道が他にもあったが、区画整理などでなくなっている。
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の雑記
グッドトイレ
旧大社駅に隣接するトイレは、平成12年(2000)に開催された全国トイレサミットにおいて、周辺景観との調和が評価され「グッドトイレ10」に選ばれたトイレである。
立石屋の道標
貞享4年(1687)高瀬川開削が完了し、川沿いに今市(出雲市)に向かう道ができたときに立てられた道標である。川方の立石屋前から今市街道と石州街道にわかれていたことを知らせる道標で、正面には「従是北大社道」裏面右側には「右石州」左側には「左今市」という三方を示す文字が刻まれている。
なお、この道標があったことから「立石屋」の屋号が生まれ、現在立石屋(土江宅)に保管されている。
中分貝塚
昭和55年(1980)ショッピングセンター「エル」の北西隅で新たに奈良時代の貝塚が発見され、「中分貝塚」と命名された。ヤマトシジミ、ハマグリ、カキ、サザエなどが出土している。その他、土器、鉄製品、獣骨なども出土している。
家畜供養塔
昭和27年(1952)北荒木地区に豚コレラが大流行し、多くの豚が死亡した。当時の上北家畜組合がこれを機に家畜の霊を慰め、これからの健康を願って建てられた。
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