神 話 の 出 雲 国・大 社 町 |
大社町の懐かしい街角・荒木地区の風景 |
荒木地区の変遷といわれ 大社町の南東に位置する荒木地区は、大梶七兵衛翁が八通山の防風林の植林と高瀬川を掘って拓けた砂丘地の「中荒木」と「北荒木」、そして、山沿いの出雲大社の神領地として統治されていた「修理免」の3地区からなっている。 中荒木と北荒木は、「大梶七兵衛翁」が事業を起こすまでは、水の乏しい、西風の強い砂地であったといわれている。それが延宝元年(1673)の八通山植林から貞享4年(1687)の高瀬川完成に至る大事業によって農業が可能となり、人々が生活できる地域になっていった。 特に、高瀬川の開削は、人々の生活と産業に大きな変化をもたらし、人口の増加とともに、稲作、養蚕、畜産、タバコ栽培、ブドウ栽培など幅広い農業が行われるようになった。また、人々の生活が定着するに従い、神社や寺院ができ、神楽や盆踊りなどの文化的な活動も盛んになった。 一方、修理免は、出雲大社の神領地として統治され、出雲大社の修理を担当することを条件に、租税の負担を免除されていたといわれ、出雲大社の管理下に置かれていたことから、荒木地区で唯一「吉兆幟」を持ち、「神謡」が古くから謡われている地域でもある。 荒木地区は、このようにたくましい地域開発の歴史とともに穀倉地帯として松江藩の統治に置かれていた中荒木と北荒木、神領地として出雲大社の管理下に置かれていた修理免が、明治22年(1889)の町村制の施行で「荒木村」となり、その後、昭和26年(1951)に現大社町に合併し、現在に至っている。 現在、大社町の南の玄関口として道路交通網、また、商業施設や浜山運動公園など定住環境の整備も進み、住宅地としての開発が期待される地域となっている。 荒木の由来 「荒木」の地名は、日本海に面した西からの強風によって出来た荒涼とした砂丘地であることから生まれたという説、また、江戸時代初期、中荒木村、北荒木村、古荒木村(現在の荒茅町朝山地区)に別れていた時代に、古荒木村の高円寺に「阿羅漢(あらき)」という鬼人が如来像を背負って訪れ、ここに如来を安置した。人々はこの如来を大切に信仰し祀ったので、後にこの村を「阿羅鬼」というようになり、さらに、後の人が字を改めて「荒木」というようになったという説がある。 |
![]() 荒木浜開拓の父・大梶七兵衛 荒涼たる荒く浜に水を引き、植林によって風害を防ぎ、砂地を農土としてよみがえらせた大梶七兵衛翁は、元和7年(1621)簸川郡古志村(出雲市)の農家に生まれた。 大梶翁が幼少のころの荒木浜は、水のない、西からの強風にあおられてキツネやタヌキさえ住めない荒地であったといわれている。 大梶翁は、この地を何とか農地としてよみがえらせることは出来ないかよ考えた末、松江藩に開拓の許可を申請し、寛文2年(1662)に許されてその準備に取り掛かっている。 そして、八通山の植林に着手し、延宝5年(1677)58歳の時に、一家をあげて荒木に移住している。 また、引き続き、貞享元年(1684)に高瀬川の開削にも着手し、貞享4年(1687)に完成した。 この2つの大事業によって、荒木浜は壮大な農地となり、藩の財政を潤し、人々の定住を促して、それまで考えることもできなかった農耕地帯として発展し今日に至っている。 その他、大梶翁は出雲市の十間川の開削にも着手するなど、元禄2年(1689)69歳の生涯を終えるまで地域農業発展に広く貢献した忘れてはならない功労者である。 <大梶翁の2つの大事業> 八通山の植林 荒木地区の西部、大梶町内から四軒家町内の西側一帯に広がる「八通山」は。大梶七兵衛翁を頭領に植林された松林の山である。 この地は、西風の強い荒涼たる小山であったが、荒木地区の風害を防ごうと延宝元年(1673)から9年の歳月をかけて植林し完成させたものである。 植林は、砂地で水がなかったことや松苗の植え方など多くの苦労を乗り越えて、完成時には松苗10万本が植えられ、今なお風害から守る礎となっている八通山が生まれた。 八通山の植林 荒木地区の真ん中を流れる高瀬川は、大梶七兵衛翁によって斐伊川から水を引くために開削され、荒木浜の農業用水として地域農業の確立に大きな役割を果たした人工川である。 延宝7年(1679)から4年をかけて完成された高瀬川は『出雲国神門郡誌』に明治18年(1885)の頃の状況が明記されている。それによると、川幅は約5.5メートル、水深は60センチから1.2メートルあったといわれている。また、荒木地区には5つの橋が架けられ、人々の交通に役立っていた。上流から、橋本橋、三田割橋(別名よこや橋)、與蔵島橋、萬屋橋、市右エ門橋があり、萬屋橋は板橋で他はみんな土橋であった。 この川は、農業のほかに荷物の運搬や人々が川舟で往来にも利用した生活川で、大きな役割を果たしてきた。 現在は、荒木地内では川幅1メートルに満たないコンクリートの溝になっていて、その面影はないが、今なお農業用水として重要な川となっている。 |
大梶音頭 荒木地区を代表する盆踊りであり、大梶七兵衛にちなんだ呼び名となっている。荒木浜の水田開発のため「農地を開墾す」という意味から「山崩しくどき」で尺八、鼓、太鼓、三味線の囃子を入れた、ゆったりとた調子の唄である。 「大社杵築踊り」「出雲荒茅踊り」の節回しと同じであるが、音頭(歌詞)は、昭和22年(1947)頃、日光寺住職故村上捷応によって作詞されたものである。 出雲大社の大梶踊 島根大社の荒木の里の、中を流れる高瀬川 川の土手草冬枯れしても、川の恵みは忘りゃせぬ 忘れてならない神門は古志の、豪家生まれの大梶翁 翁の功は数々あれど、園の長浜荒木の浜よ 浜に松の木移されりゃ、根はり枝はり風またはばむ 見事美田に水また充ちて、見た目ゆかしき郷となる 成るは一日、二日のことか、骨身を削る苦心あり 蟻の歩みの実は結ばれて、八通お山の松の色 励む村人あな頼もしいや、弥山に霞がたなびけば 桑の芽も伸ぶ、伸びた麦田の手入れにくれる あの娘化粧する暇もない、泣く子すかして桑の葉つんで 蚕蚕でまゆ玉、娘おたいこ赤たすき 早苗取る手もいそいそと、所変われば風儀も変わる 畑の水汲み急がしや、桃やトマトや茄子葉っぱ 子供老人総出で刈って、秋の収穫ようやくすんだ かわいい背君米俵、手に手にぎりて増産一路 ニッコリ笑って西振り向けば、神代ながらの三瓶のお山 やがて三瓶に雪が降る、米を背にし大梶神社に 御初穂あげて拝みましょ、益々繁盛する村内家内 これも大梶翁のお陰なり、出雲大社の大梶踊り |