栢島と権現祭り
柏島(権現島ともいう)は、鷺港の中に屹立する美しい姿の島であり『出雲国風土記』には「脳島、紫、海苔生へり、松、栢あり」と記されている由緒ある島である。
権現祭りは、海の祭りとして、7月31日豊漁と海上安産を祈願する。柏島頂上に祀られている柏島神社の祭りである。主祭神は、素戔嗚尊と事代主神が合祀されている。
夕暮れ時、神官による祝詞奏上の後、地区のほとんどの漁船が大漁旗をなびかせて柏島を一周し、賑わう祭りである。
八千代川
集落から少し上流で梅谷川と合流し鷺港に注ぐ川である。
川岸に桜並木があり、特に春の鷺浦を代表する風景ともいえる川と桜のタイアップが美しい。
明治初期までは「杵築谷川」といったが、いつのころからか「八千代川」と呼ばれるようになった。
鷺浦集落内の八千代川に架かる八千代橋という橋がある。大正7年(1918)にできた当時は、擬宝殊高欄の木造づくりであったが、昭和8年(1933)の水害で流出し、その後コンクリート橋となっている。
八千代川には、きれいな川でしか生息できないカジカガエルがいる。この自然環境を守るため、地元の「八千代川の自然を守る会」を中心に活動が進められている。
鷺銅山
鷺峠を下って平坦になったあたりの道路脇の杉林の中に、石垣が残っている。かつて銅山のあったところである。
石見銀山の先駆けをなした古い銅山として、室町時代からあったとされ、『銀山日記』などによれば、400年前の大永6年(1526)に鷺銅山の山師三島清右衛門が博多の商人神屋寿禎と共同で大森銀山を開発したとある。
近代になって、明治36年(1903)の調査記録によれば、洋風の2階建ての事務所、長さ18メートル、幅10メートル、ボイラー機械、倉庫、選鉱場、開抗所、職工住宅、合宿所、焼鉱場、溶鉱炉など21棟、役員12人、職工205人の総員217人の規模もあったとされているが、昭和初期に閉山となった。
伊奈西波岐神社
鷺浦の入口附近にある神社で、出雲大社の摂社であり、主祭神は、稲背脛命である。天然痘の守護神も祀られている。
『出雲国風土記』や『延喜式』にも記載されている由緒ある古社である。現在の本殿は、明治14年(1881)に造営されたものである。
稲背脛命とは、出雲神話の国譲りで大国主神の使者として事代主神のところに遣わされた神様である。
文殊院
八千代橋を渡った山沿いの西大床山麓にある曹洞宗のお寺で、慶安元年(1648)の開山である。
山門の両側に二体の金剛力士の石像(仁王)がある。悉曇文字の供養石塔もある。
山門にある二体の仁王は、時に汗をかくことがあることから、「汗かき仁王」といわれているが、汗をかくと近いうちに火事か大雨が降るという古くからの言伝えがある。
事実、大正15年昼頃に、宇龍境で山火事が起こり、鷺浦の西の大半の家は避難したほどであったが、この時は幸い土砂振りの雨で納まったということである。
この騒ぎの2〜3日前、地元の古老がすごく汗をかかれた仁王さんに気がついていたという。まさかと思って誰にも話さないでいたということであった。
仁王さんは大きな自然石で、線刻が美しく見事である。
鷺浦シャギリ
正月2、3日(現在は2日のみ)20人前後の若者が、本面、柴面、天狗面と衣裳を身にまとい、日没後、笛、太鼓、謡いのシャギリ囃子にあわせて八千代橋から舞の行進がスタートし、街道を東へ進んでいく。
鷺隧道で折り返し、西へと進み行くとき、2〜3人の本面、柴面が家々になだれ込み、急テンポの勇壮な役払いの舞いをして無病息災、家内安全を祈る正月行事である。
鵜鷺小学校跡
鵜鷺小学校は、鷺浦と鵜峠の中間地点にあった。元鵜鷺中学校も近くにあって、鵜鷺と鵜峠の小中学校が毎日通った校舎が残っている。旧中学校校舎は現在鵜鷺公民館と資料室として活用されている。
鵜鷺小学校は、昭和27年(2015)3月21日閉校し大社小学校に合併された。小学校の下に大銀杏があり、その少し上に高いメタセコイアの木がある。
昭和20年(1945)中国四川省で発見されたメタセコイアは、生きた化石として有名である。アメリカでその苗が育てられ、日本に送られた苗が各県の小学校に植えられたのは昭和30年(1955)でそのうちの1本のセタセコイアが大きく成長した。植えられてから60年間児童の成長を見守っていたことになる。
日本名は曙杉、出雲大社神苑にも植えられている。
猪目峠と鷺峠
出雲大社脇から登っていくと、右に下るところが「猪目峠」である。そこから平坦な道を少し行くと鵜峠鉱山道との交点に道標が立っている。そこが「鷺峠」である。鷺峠の三差路にある道標は明治期に立てられたととある。「右 鵜峠浦 銅山道」「左 鷺湊」「宇龍道」と刻まれている。鵜峠鉱山への道は、今は廃道となっている。
峠を越える道は、高尾ゆうゆうラインが開通するまで町の中心に出る唯一の道であり、生命線というべき道路であった。
バスが開通するまでは、猪目峠と鷺峠には休憩する茶屋があった。夏には近くから湧きだす清水で冷やしたラムネや心太なども売られており、峠を越える人々が一休みしたといわれている。
戦中戦後間もない食糧難の頃には、自家製塩と交換したヤミ米を背負って、恐る恐るこの峠を越えたそうである。
潮村少年記
鵜鷺村をモデルに執筆されたこの本は、当時の文部省推薦図書にも指定され、全国の子どもたちに親しまれた。
物語は、尋常小学校の子どもたちの生活を通して、大西洋戦争が激化する前の、この地域のことがとても写実的に描かれている。
当時、鷺浦は戸数150戸足らずで、鵜土(峠)の100戸、鉱山の60戸に比べて一番多かったが(中略)多くの壮青年たちは、40トン前後の発動機船に分乗して、遠く五島列島・東支那海等に出漁していた。(中略)鵜土は、中央の山地にある石膏鉱山からの荷出しと沿岸漁業で生活していた。(中略)石膏鉱山は村で一番高い龍ケ山の北東の山腹にあって、鉱区は4つに分かれ中でも中国石膏株式会社と日本鉱業株式会社の規模が大きかった」など、地域や産業の変遷を知ることができる。
また、今日も引き継がれている「鷺シャギリ」などの伝統行事や海や島の風景など、連綿と生き続ける地域の息吹きを知ることができる。
現在、この本は希少なため、町立図書館「でんでんむし」の閉架書庫内で保管されており、一般閲覧用としては、鵜鷺公民館に写本が置かれている。
鷺浦の東の高台に「極楽鼻」と呼ばれる高台の墓地があり、諸国の船乗り達の墓も残されている。
その中に、卵塔墓があるが、寛政11年(1799)、京都から隠岐島流の途、鷺にて病没した門誉和尚の墓である。
また、この門誉和尚のすぐ近くには、潮村少年記のモデルといわれ、昭和36年(1960)に53歳で亡くなった宇佐美忠三先生の墓もある。
「山北の海のほとりに
ひそかなる花を育てむ
ひそかなる花を」
と刻まれている。
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