真名井の社家通り
真名井、宮内や御宮通りには、かつて出雲大社に奉仕した神官の築地塀に囲まれた屋敷が集中している。
特に、出雲大社から東に向かう「真名井通り」には北島国造館前の竹下家など典型的な社家屋敷の様式が残されており、清閑なたたずまいを今に残している。
遠い昔から絶えることなく湧き出ており、「島根の名水百選」に選ばれているのが、「真名井の清水」である。
出雲大社の神事に関わる神聖な水として、11月23日に催される古伝新嘗祭の祭事の中で、国造の寿命を延ばす「歯固めの神事」ひは、この井戸の小石を用いる習わしとなっている。
昔から地域の人たちの生活用水としても使われ、「神水」として遠くからこの清水を汲みに来る人も多い。
八雲山と亀山の谷あいに始まり、出雲大社の東、北島国造館との間を流れる川である。
うっそうと茂る木々や石垣の閑静なたたずまいと景観を有し、熊野川の字が充てられこともある。
大社神謡の祝歌「八雲立つ」の中で謡われる川でもある。
宇迦山とも呼ばれ、出雲大社の背後にあって神体山とされており、神聖な禁足地として古来から入山が禁じられている。
大社の社伝として、神殿の高さが上古32丈(96メートル)あったというのは、この山を指すのではないかという説もある。
<鶴山と亀山> 出雲大社の西、千家国造館の裏山を「鶴山」、東にある北島国造館の裏山を「亀山」と呼んでいる。八雲山の左右にあって縁起の良い鶴亀から名付けられたといわれる。
ホタルも生息する整流。出雲大社の西から神苑を横切って流れる川である。上流で八雲山からの支流・奥谷川が合流しており、上流にはゲンジボタル、ヘイケボタル、ヒメボタルが生息し、その保護が図られている。
奥谷を素鵞川に沿って400メートルほど登ると「みとせさん」として親しまれている「大穴持御子神社」がある。出雲大社の摂社で、御祭神は事代主神と高比売神、御年神である。
正月三が日は、福迎え行事が行われ、未明からこのお社にお参りしてサカキの小枝とカヤに「垂」と紙の小判を付けた福茅を授かり、神棚に飾って開運を祈る風習がある。
越峠の表通りにあり、中町、元町、四つ角、東立小路、鍛冶町の5町内の荒神さんとして親しまれ、6月18日の例祭は、杵築の夏祭りのはしりとして浴衣を着てお参りする習わしがあった神社である。
御祭神は、三宝荒神と素戔嗚尊となっている。最古の棟札には宝永4年(1707)と記されており、現在の社殿は、明治36年(1903)に造営されたもので、その後三度の修復が施され現在に至っている。
境内には、大国主の命と事代主神が祀られた恵比寿神社もある。
外苑の南の高台にある出雲大社球場の地は、もともと住宅と畑地であったが、明治36年(1903)に杵築町尋常小学校が建てられた。
昭和25年(1950)に東西の小学校が統合されて、大社小学校となり、東校舎としてそのまま使用されてきた。昭和43年(1968)、現在地に東西ひとつの小学校が建てられ、その後、解体されて野球場となった。
東立小路にある浄土真宗のお寺である。親鸞の弟子明光上人が出雲大社に参詣したとき、紫雲がたなびいたことが縁となり、北島乗光が弟子となって貞応元年(1222)に大鳥居の西側に建立されたが、寛文の出雲大社ご造営のとき、参道入口に寺院があるのはよくないということから現在地に移築された。
庭に樹齢500年以上といわれる町の天然記念物「イチョの巨木」が2本あり、昭和51年(1976)に島根県の名樹にも選定されている。また、昭和26年(1951)に再建された鐘楼には、町内で数少ない梵鐘(釣鐘)が吊るされている。
町指定文化財として「紙本墨画龍図襖」と「紙本著彩高士図襖」各三面が保存されている。
四つ角にある真言宗のお寺で、弘仁の頃(810〜823)、空海(弘法大師)開創の社伝もあるが、出雲大社の別当寺であったと伝えられている。また、永正12年(1515)に尼子氏によって焼き払われたが、山中鹿之助によって再建されたという。
寛文7年(1667)の出雲大社ご造営で、神域から仏教色が一掃されたときに、鐘楼・梵鐘・大日如来・観音菩薩・弁財天・不動尊・護摩堂などが移されたといわれ、現在、町指定文化財として絹本著色真言八祖像」8面、「木造大日如来坐像」など8躯、町指定有形民俗文化財として「常香盤」が保存されている。
出雲大社や国造家と特別な関係があったことがうかがえる寺であり、境内に永禄(1558頃)以降の出雲国造の墓もある。
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地名あれこれ
宮内
宮内は、江戸時代から明治6年(1873)まであった杵築宮内村の名称を受け継いでいる。杵築宮内村は、江戸時代、杵築大社神領で出雲国造家代官の統治を受け、多くの神社と社家屋敷が密集していた。現在、真名井となっている北島国造館から東の命主末社までは宮内だった。
杵築は古来神領であり、多くの人たちが現世を逃れて国造家の庇護を受け永住した。また、様々な学問、文学や芸能が盛んに行われて、多くの学者や文化人、芸能人を育んだが、宮内は、その中心であり出雲大社の西に位置し、今もそのたたずまいを残している。
乙名橋と桜町
「乙名橋」は、大駐車場となっている出雲大社外苑の西南にあった橋で、今は暗渠となってその名が残っているだけである。また、外苑の南側に沿って桜並木があり、桜の名所として花見客で賑わい「桜町」と呼ばれていたが、国道431号線の拡幅に伴い、大きく変わってしまった。
大鳥居
勢溜一帯は砂丘地で、古くから大きな鳥居があり、慶長の頃(1596〜1614)、現在の大鳥居に通じる道路ができてから人家が次第に増えていった。
元禄4年(1691)に「下原(正門西)」で「富くじ興行」(現在の宝きじのようなもの)が行われるようになってから、入札する人や参拝客を対象とした旅館や遊郭っができ、杵築の中でも最も賑わう街となった。
明治から大正にかけて、特に国鉄大社駅ができた明治45年(1912)以降、大社町は全国からその大社参拝泊り客で賑わったものである。その当時の歓楽街は、大鳥居から越峠にかけてであり、芸子の取り次ぎ検番が8軒もあり、芸子が40人もいたといわれる。
越峠
「越峠(こえど)」とは、北越峠と呼ばれていたお宮通り、東越峠と呼ばれていた中町、元町、本越峠の四つ角、立小路、鍛冶町の地域をいう。
越峠は、室町時代からみられる地名で古文書に「こへたわ」とあり、いつから「こえど」になったのは明らかではない。
江戸時代の杵築の中心地で、石見方面からの大社参拝の門前として栄え、北越峠は、昭和10年(1935)に御宮通りに、東越峠は昭和26年(1951)に元町・中町に分割改称された。
中町から大鳥居に上る最も急な坂は明治の初めに人力車が入るまで石段があった。また、御宮通りから宮内に下る坂(鳥屋尾坂と呼ばれていた)も石段だった。
宮西町
宮西町は、御宮通りから西に入る道沿いの町で、古くから大社の社家が多く、以前は「西小路」と呼ばれていた。
鍛冶町
出雲大社の御用鍛冶が住んでいたことから起こった町名で「鍛冶屋小路」とも呼ばれている。
文政6年(1823)中村の大火にあい、ここに移った「出雲阿国」の子孫は出雲大社から神門開閉の特権が許されて「門鍛冶」と呼ばれるようになったといわれているが、立小路から鍛冶町に入る入口に大きな門があったことに由来するとの説もある。
富屋町
富屋町は、明治12年(1879)の杵築市街図に「富屋丁」として越峠の北に書き込まれており、古くからの地名だが「奥小路」とも呼ばれ、この名のほうが知られていた。
昔から閑静な住宅地で、古くは、道が佐草山に向かっており、大社新道が開通したのは明治6年(1873)のことである。
東立小路
東立小路は、明治時代に杵築の中枢として賑わった四つ角から西に大土地に向かう通りで、西立小路につながり、商家、仕立て屋、料理屋、住宅などが軒を連ねており、今もその面影が残っている。
四つ角
明治時代の絵図には、「四つ角」は「四ツ街道」と記されている。立小路街道、院内街道、北越峠街道、東越峠街道の四つの街道が集まるところから名付けられたもので、この「四ツ街道」がいつ頃からか「四つ角」と呼ばれるようになった。
「四つ角」は、立小路街道と院内街道の三つ角、北越峠街道と東越峠の三つ角からなり、実際には「六つ角」となっているのだが・・・。
「四つ角」は、明治時代には役場、登記所、郵便局、学校、警察出張所など町の主要な公共機関が集中する杵築の中枢として、商店街もあり賑わっていた地区だった。
ひとくちメモ
西光寺の梵鐘
かつて出雲大社の境内にあり、松林寺を経て福岡市の西光寺の所有となり、国宝に指定されている。
平安時代前期の承和6年(839)、伯耆国(鳥取県)金石寺の鐘として鋳造され、いくつかの寺を経て尼子経久により出雲大社に寄進された。寛文6年(1666)に鐘楼と共に大社の別当寺であった松林寺に移されたが、明治の廃仏稀釈の嵐を受けて松林寺を離れ、明治29年(1896)に西光寺の所有となり、今日に至っている。
垂(シデ)とは
神前に供える玉串、注連縄などに垂れ下がるもの。昔は木綿を用いたが、神を使うようになった。
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