神 話 の 出 雲 国・大 社 町 |
神々の集うところ杵築地区 |
杵築地区の変遷といわれ 「杵築」の呼び名は、『出雲国風土記』において、この地が国引き神話の霊地とされ、また、国譲り神話にもあるように、大国主神の国土奉献によって高天原と同じような宮殿を造ろうとして、諸皇神が宮処に集まって築かれたため、地名を寸付といい、神亀3年(726)に字を「杵築」に改めたとされている。 明治維新までの杵築の地は、『出雲国風土記』にある杵築の郷の中心(首都)であって、杵築6ヵ村といって修理免と区画していた(修理免は、古来杵築の一部であったが、明治6年(1873)分離して旧荒木村の一字となった)。 ※市場村(玄光院、坪の内、横町、四本松、流下などを含む) ※越峠村(四つ角、鍛冶町、立小路、富屋町などを含む) ※中村(新町、横丁、開市、立小路北側、上中村などを含む) ※仮宮村 ※大土地村(客の町、上大土地、永徳寺坂南側、立小路南側などを含む) ※赤塚村(小土地、大川尻などを含む) (以上、杵築6ヵ村) ※修理免村(本郷の他に、原、馬場、下原、大鳥居、流下などは修理免大社の直属) その後、明治6年(1873)に杵築東村(宮内分、越峠分)、杵築西村(大土地分、赤塚分)、杵築南村(市場分、修理免分の馬場・下原・大鳥居・流下など)、杵築北村(中村分、仮宮分)の4村に統一されている。 また、明治22年(1889)の市町村制実施に伴い、東と南村は杵築町に、西と北村は合併して杵築村となった。さらに、大正14年(1925)には杵築町と杵築村が合併し、「大社町」と改称され、「杵築」という由緒ある名称は、東西南北の大字として残されるだけとなった。 |
神域 出雲大社
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出雲大社 | 平安時代48メートルの模型 | 鎌倉時代36メートルの模型 |
『古事記』・『日本書紀』によれば、「大国主神」の国譲りに際して、底つ磐根に宮柱を深く立てた壮大な宮殿を造られたのが出雲大社の始まりである。 大国主神は、「八千矛神」「大穴持神」などの多くの別名があり、統率力、英知がある上に人々を幸せな縁で結ぶ神として崇められている。『出雲国風土記』には、大国主神のために大勢の神々が集まって宮を寸付いたと記されており、「杵築大社」ともいわれている。 出雲大社は、少なくとも8世紀には大きな社が建てられていたといわれ、平安時代中頃の「口遊」に「雲太、和二、京三」という当時の大建造物を示す記述があり、これは出雲大社が最も大きく、次いで奈良の大仏殿、京都の大極殿の順ということを意味している。出雲大社の本殿の高さは、太古は32丈(約96メートル)、中古は16丈(約48メートル)、近古は8丈(約24メートル)という伝えがあり、平安時代の出雲大社は、16丈の壮大な建物であったといわれている。 現在の本殿は、延享元年(1744)に造営されたもので、高さは24メートル、昭和27年(1952)に国宝に指定されている。 |