神門通り
神門通り
出雲大社へ向かって、南北に貫く「神門通り」は、現在の出雲大社へのメインストリートである。
明治45年(1912)、国鉄大社駅の開業とともに駅と出雲大社を結ぶ直線の新しい道路ができた。堀川に架かる宇迦橋から勢溜に至る通りが「神門通り」である。
大正4年(1945)には、大鳥居と松並木が寄進され、一畑電鉄大社神門駅の開業によって、一層近代的な参詣道として発展した。道の両側には、旅館や土産品屋が軒を連ね、新しい門前町の町並みが形成された。
昔は、この辺り一帯、人家のない荒れた砂地でキツネも出たといわれており、もともと神門原といっていたことから。「神門通り」と呼ばれるようになった。
宇迦橋
宇迦橋
神門通りの大鳥居前の堀川に架かる宇迦橋は、今は廃業となった大社駅から出雲大社参拝のための橋として、大正3年(1914)に架けられた。
宇迦の山並み(北山)が見えることから「宇迦橋」と命名され、出雲大社へ誘う橋として愛されている。
宇迦橋は、堀川に対し直角に架けられてはいない。出雲大社参道から直進した形で、やや斜めに架けられている珍しい橋である。これは、費用よりも出雲大社参拝を優先させたためである。 宇迦橋詳細
建設中の大鳥居(大正3年頃)
日本一の大鳥居 神門通りの宇迦橋のたもとに、高台にそびえ立つ大鳥居は、大正4年(1915)、北九州小倉の篤志家小林徳一郎氏により、駅通り〜神門通りの松280本とともに寄進されたものである。
鉄筋コンクリート製で、出雲大社本殿より少し低い高さ23.5メートル、柱の周囲6メートル、額面は畳6畳敷もある。
大鳥居と松並木は、出雲大社の門前・参道入口にふさわしい景観となっている。
一畑電鉄出雲大社前駅
一畑電鉄出雲大社駅
大社町と松江市・出雲市を結ぶ私鉄一畑電車の出発点が神門通りの中ほどにある「出雲大社駅」である。
駅舎は、昭和5年(1930)に建てられた鉄筋コンクリート平屋建て、ふくらみのある半円形のみどりの屋根を持つ外観で親しまれている。内装は、白く塗られた内壁や高い天井、窓はステンドグラス風となっている。
また、玄関からホームまで一段の階段もなく人にやさしい造りになっており、平成8年(1996)に「国の登録文化財」に指定されている。
明治末期の勢溜
これより参道
神門通りの坂道を上ると出雲大社の参道の入口である広場・勢溜がある。
新しい参詣道の終点である勢溜の坂道は、古くは御影石が魚のうろこ状に敷き詰められた風情のある坂道であった。また、この通り道の両側には、旅館や土産品店が軒を連ね、勢溜周辺は大いに賑わっていたものである。
現在、門前町再生に向け、新しい観光スポットづくり、賑わいづくりへの取り組みが進んでいる。
馬場通り
東からの参詣道(馬場通り)
勢溜下から東に向かう通りが「馬場通り」であり、馬場の起こりは、この地で馬術の調練をする馬場があったことから始まるといわれ、その馬場を道路に改修したのが現在の馬場通りで、「新馬場」ともいう。それに対して、それ以前の神光寺前の通りを「旧(古)馬場」ということもある。
かつての馬場通りは、今市、平田方面からの参詣道であり、通りの両側には商人宿や小間物屋が立ち並んで大変賑わった通りであった。昭和30年代には、ココヲバスが走っていた。
写真の左手前のちょっと風変わりな建物は、今は菓子店だが、以前は旅館業を営んでいたという。1階に大屋根をかけ、装飾的な破風を正面に向けた2階を城のように乗せた形に建てられている。全国的にも珍しい形の町家である。
神光寺
神光寺
神光寺馬場の地名由来といわれる馬場にある曹洞宗のお寺である。
悦堂常喜を開山とし、貞治年中(1362〜68)の創建と伝えられる。はじめ修理免の弥山のふもとから14〜15町(約1500メートル)も山奥にあり、出雲国造家の帰宗を得て、仏道霊場として栄えた。天正年中(1573〜92)、洪水山崩れのため崩壊し、山麓(現在の子安寺のある場所)に移転再建された。その後、再度洪水にあい、現在地に移転再建されたものである。元々の地は、「坊床」と呼ばれている。
馬場川
馬場川
大社の町の中心を流れる堀川は、三木与兵衛翁によって新光寺山と乙見山を切り裂いてつくられたといわれ、この周辺では「馬場川」と呼ばれている。昔は水がきれいで、子どもたちが泳いだり、たくさんの貝や魚も取れた。馬場通りに架かる神光寺橋や宇迦橋の上からは、川舟による「うなぎ掻き」も見られ、まさに住民にとっては、「故郷の川」でもあった。
当時たくさんいた手長エビやカラス貝も一時はまったく姿を見られなくなったが、近年、環境が改善しつつあり、少しずつきれいになってきている。
馬場通りに架けられた新光寺橋も「馬場橋」と呼ばれている。「堀川」は場所によって、原川、新光寺川、馬場川、流下川などと呼ばれている。
大村家住宅
市場通り
「市場通り」は、神門通りの西を平行にして走る通りで、かつてのメインストリートであり、流下、市場を経て宮内に入り、出雲大社に至る石州、西国方面からの参詣道であった。
特に近世以降は、この道筋に家屋が集中し、街並みが形成されていった。古くから道幅も広く、この道沿いにはたくさんの市が立って賑わったところから「市場(庭)」と呼ばれるようになった。
現在も市場通りには、「藤間家」や「大村家」など風格のある街並みが残り、杵築の中でも歴史的景観を保有する代表的な通りである。
藤間家住宅
藤間家住宅
市場通りの中でひときわ目を引く建物が藤間家である。
藤間家は、江戸時代には酒造業を営んでいたが、他にも松前から長崎にかけて手広く廻船業を営んでいた。また、藩の本陣や勅使の御本営も務めた家である。
通りに面して屋根塀を建て、「勅使門」を構えているが、勅使門のあること自体、大社の町ならではの景観である。建物は、江戸時代初期の建造とされ、昭和62年(1987)に「県指定文化財」となっている。
大社公民館
大社公民館
市場通りにある大社公民館は、大社高等女学校、後に大社中学校として活用された歴史ある木造住宅である。
70年の風雪に耐え、昭和60年(1985)からは大社公民館として利用されている。特に、敷地内には、平成16年(2004年)新たな「大社健康スポーツ公園」も整備されて、県内でも有数の利用率を誇る地域の拠点となっている。公民館の中には、「大社町民民族資料館」が併設されていて、大社糸あやつり人形をはじめ、多数の民族資料が収集、保管されており、一度は見て欲しいものである。
大社文化プレイス
大社文化プレイス
大社文化プレイスは、歴史と伝統ある大社町に21世紀の文化を担うことを目指して、平成11年(1999)に開館した。
この施設は、さまざまな文化イベントや講演会、会議などを開催できる「うらら館」、地域に密着した図書館サービスを提供する「町立図書館でんでんむし」のふたつの機能を持っている。施設は、緩やかにカーブを描く大きな屋根に覆われて、美しい山々を背景に神都にふさわしい景観を作り出している。
歴史から学び、現在を生き、未来を描く町の大切な文化施設として、出会いと発見の場、活動の場となっており、様々な団体や多くの住民が利用している町の文化交流拠点である。
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地名あれこれ
下原と正門西
元禄4年(1691)頃は、大鳥居一帯は、砂丘の断崖で、一面原っぱであったが、人家が増すに従い、「下原」という町名になったものと推測される。
しかし、「下原」という町内名も、荒木地区に「上原」町内があり、「かみばら」は聞こえがいいが、「したばら」というのは上品さに欠けるということもあって、昭和44年(1969)、出雲大社の正門前の西に位置していることから、「正門西」が町内会の総意で決まり、今日に至っている。
柳町
大正時代に出来た歓楽街で、堀川端に柳の並木があったところから「柳町」と呼ばれるようになった。
今は町名も「朝日町」変わり、柳の古木が一本だけ残っている。
四本松
市場の藻並みに続く「四本松」は、おそらく四本の大木の松があったことから起こった地名と思われる。
いわれによると「この地に四本の大松があり、四本松の名が起こる」とされており、また、杵築惣絵図にも四本の松が点在して描かれていす。
榎小路とおべん小路
四本松北にある小路であるが、井戸のそばに大きな榎があるので、「榎小路」という。この榎は、今なお、この小路のシンボルとして人々に親しまれている。
また、「おべん小路」は、市場南にある小路で「おべん」という人が住んでいたことから、「おべん小路」と呼ばれるようになったといわれる。おべんが何者か、男か女かも諸説があって定かではない。
流下
流下、川方はかつて修理免村であったが、明治5年(1872)に流下は杵築に、川方は荒木村に属した。流下は堀川の下流の意味である。
江戸時代から明治にかけては、石見地方から出雲大社参詣道の唯一の入口として旅籠や雑貨店や食事所などあり、賑わった場所である。現在は南本通りと呼ばれている。
坪の内と院内
市場通りから西に小路を入ったところが「坪の内」である。
中世において、坪内氏がこの地に家を建て、居住するようになってから、「坪の内」と呼ぶようになった。
また、坪の内に続く「院内」は、四つ角にある松林寺の寺院内にあったことから「院内」と呼ぶようになった。
現在は「本町」と改称されている。
玄光院
勢溜から南西に路地を入ったところである。旧地名は「多仲原」であり、この地に玄光院(現在の西光寺の前にあったが、今は廃寺となっている)が建てられ、寺の名が地名になったものである。
玄光院は地元では「ゴンコイ」とも呼んでいる。
鹿城丘
旧大社高校の北約300メートルにある小山には、昔松が生い茂っていて鹿が出て遊んだので「鹿畔」と言ったのを、「鹿黒山」と改めた。その地続きの高校の所在地も松の多い小丘であり北島市正田中の所有地であったのを、寛政の頃手銭官三郎の所有となり、嘉四郎という人が居住していたから「かしろ山」と言われていたのを明治になって鹿黒山に対し「鹿城山」と称え村の帳簿に書き入れられたのがこの名の起源である。
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杵築南の雑記
大社駅ができ、直線道が整備されると、大正時代の中頃には、観光客や参拝客が激増した。そこで、この一帯を歓楽街にするために「行楽館」や「お国座」が建てれた。また、花街として「柳町遊郭」が誕生し、界隈は、一大歓楽街として賑わった。
行楽館
演舞場として大正13年(1924)に建てられ、後に行楽館と改名された。主に、芸子連の歌舞や人形浄瑠璃が行われた。今は朝日町公会堂が建っている。
お國座
大正13年(1924)に建てられ、関西歌舞伎や糸あやつり人形が演じられた。ちょうど同じころに「中村お国座」も建てられている。お國座は、のち「大社劇場」と改名され、映画が主に上映されるようになった。今は、「えびすやユースホステル」が経っている。
胞衣荒神社
「胞衣」とは、出産後の胎盤のことをいう。この名称ををもつ神社は他に例をみない。
市場四つ角から東にはいった市場南町内にある前原荒神社に合祀されている神社である。
従来、出産は各家庭で「産婆さん」により取り上げられていた。近年は病院による出産がほとんどで「胞衣」に対する意識が薄くなっているが、毎年大社町に関係のある新生児の生誕に感謝するとともに、成長を祈願する神事が摂り行われている。
安部忠之介詩碑
大社中学校の玄関西側に立てられている記念碑である。
安部忠之介は、日本詩人クラブ会長の西条八十亡きあとをついで会長を務め、昭和4〜15年(1929〜40)の間は県立大社高校の教師であった。
◯碑文 ここまでたどり着いて誰ひとり見えない
うつむくな 僅か空に残る
あの青を信じるがよい
安部忠之介
ご縁まつり
ご縁まつりは、昭和53年(1978)町民総参加のもとに、「郷土に対する愛着心」を培い、神都に相応しい賑わいを創設しようと「ふれあいを結びの神とご神火で」をサブタイトルに盆の新しい祭りとして始まった。
鯛や船形の「じょうき」を引いて歩き、露店や花火大会など、観光客にも魅力ある祭りとして大社の夏の風物詩となっている。
玄光院の赤地蔵
玄光院の西光寺の少し東に、通りに面してある地蔵である。お金持ちの「夢さとし」から、亀山からこの地に運んでお堂を建てたという伝説がある線刻地蔵さんである。
伝説
お金持ちが「わたしは亀山の赤地蔵だ。一人で住んでおり、寂しくてしかたがないのでにぎやかなところへ移してくれ」という夢を見た。
さっそく亀山に登ってみると、赤地蔵が立っていた。背負って上玄光院まで来ると急に重くなり、この地で祀ったという。
大社ご縁ネット
昭和39年(1964)に始まった有線放送電話は、昭和41年(1966)の自動化などの施設更新を経ながら、町の勝報手段として大きな役割を果たしてきた。
その後、町の重要な地域情報システムとして幹線に光ケーブルを敷設、うらら館北の四本松に本部局を移転新設し、平成10年(1998)4月新たな有線放送電話(ご縁ネット)がスタートした。
通話・放送はもとより、災害や福祉への活用など、今後とも地域ニーズにあった管理運営が望まれている。
古代ハス
大社公民館の池に咲くピンクの美しい花。それは2000年の時を越え、蘇る大賀ハスである。縁があり、大田市役所から譲りうけたもので、毎年7月には、「古代ハス祭」が行われる。
復活盆踊り
「復活ふるさとの盆踊り」が大社公民館を中心として始められ盛り上がっている。
大社の盆踊りのルーツは、阿国が踊った「念仏踊り」といわれている。盆踊りの盛んだった昭和20〜30年代初めにかけて、杵築の盆踊りと阿国踊りは、夏の夜の風物詩であった。
お手植えの松
大社中学校の玄関前にそびえ立つ大松は、皇太子だった大正天皇が明治40年(1907)出雲大社に参拝された時に学校に立ち寄られお手植えされた松である。
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