平成の広域合併で出雲市となる前のふるさと大社町の懐かしい街角・杵築北地区を紹介するサイトです。
神 話 の 出 雲 国・大 社 町

杵築北地区

杵築北の概略図
  
神話と阿国と町並みと
 杵築北は、出雲大社の西方に位置し、北には山を、西に稲佐の浜がある日本海に面した地域である。
 大社一の港である大社漁港(築港)があって、古くから漁業が盛んなところであった。地区内は漁村特有の狭い路地が迷路のように走っている。
 出雲大社から稲佐の浜までの通り周辺には、出雲阿国の墓や奉納山の於國塔など出雲阿国にまつわるものが多く、「阿国の道」と呼ばれる散策ルートもあり、特に勢溜から海岸通りまでの通りは「阿国通り」と名付けられている。
また、旧暦10月に全国の神々が出雲大社に参集されたとき、ひとまず仮の御宮として入られる「上の宮」があることから、「仮の宮」と呼ばれる地域があり、神迎え、国譲りなど神話や物語に彩られたところである。
 『国引き神話』 昔、出雲国に八束水臣津野命やつかみずおみづぬのみことという力の強い神様がおられました。
 ある日、命は山の上に立って国中を眺められ、「この国は小さな国だなあ」と思われました。そこで、「余っている土地を持ってきて、つなぎあわせて大きな国にしよう」と考え、あちこちを見て回られました。まず、志羅紀しらぎ(朝鮮)の国に余りがないかと眺められると、そこには土地の余りがありました。そこで命は、幅の広い大きなすきでその土地を切り離し、強い綱をかけて「国来くにこ国来くにこ」と引き寄せられました。
 全身の力を込めて綱を引かれると、土地はだんだん近づいてきて、ついにつなぎ合わさりました。この土地が杵築のみさきで、綱をかけるために立てた杭が佐比売さひめ山(三瓶山)になり、その時使った綱が「薗の長浜」になりました。こうして、あちこちの土地を引き寄せられ、出雲を広い国にされました。
 国引きは、このほか、3回行われており、三穂みほの埼(美保関)を引き寄せた時には、「綱が弓ヶ浜、杭が大山」となったとされている。


阿国と連歌庵
 歌舞伎の創始者 出雲阿国

 「歌舞伎の始祖」として知られる出雲阿国は、大社町中村の鍛冶職人、中村三右衛門の娘で、出雲大社の巫女であったといわれる。
 子供の頃、出雲大社本殿修復のため諸国勧進の旅に出て、京へ上ったといわれている。踊りが好きで才能があった阿国は、「ややこ踊り」や「念仏踊り」を舞い、阿国の名は京の都に広まった。男装をして刀を差し舞ったことから「かぶき者」として脚光を浴びて「歌舞伎の創始者」といわれるようになった。時の関白豊臣秀吉に招かれて舞を披露し、天下一と賞賛されている。また、徳川家康からは、サンゴの数珠を授かったといわれている。
 晩年は大社に帰り、出雲大社の西方の草庵で連歌をつくり、読経に暮れ、78歳の生涯を終えたといわれている。この草庵(連歌庵)は、中村の大火で焼失したが、養命寺(2番札所)前に再建され、その後西蓮寺に移された。
 平成15年(2003)には、歌舞伎発祥400周年を迎え、大社町はもとより、全国各地でイベントが開催された。

奉納山の於国塔
 奉納山公園の於国塔
 阿国を顕彰したいという歌舞伎界の思いと地元の人の協力により、昭和11年(1936)に完成した奉納山中腹にある石塔である。
 阿国塔の文字は、後の首相となった近衛文麿によるのもであり、それを刻む石棚に著名な歌舞伎役者や当代一流の芸能人の名前が刻まれ、阿国の偉業を称えている。
 また、この塔の素晴らしさは、男装して舞う阿国のレリーフにある。作者は、内藤伸の後、弟子の西田明史の作として、昭和43年(1968)に再建されたものである。
 奉納山公園の入口には、「出雲阿国終焉地之碑」という石碑がある。
 これは出雲阿国顕彰会が建立したもので、「劇祖出雲阿国、天下に名を成し、老いて後、故郷に帰り、この碑の東南に草庵を結んだ〜」と由緒書きされている。出雲阿国の生国、晩年を過ごして没した中村の地に阿国を偲び、顕彰して昭和55年(1980)に建てられた。
阿国遺品の数珠と手鏡の写真 奉納山公園入口から南に少し下ったところに、阿国ゆかりの品が伝えられるお寺がある。浄土宗安養寺である。
 晩年阿国が過ごした連歌庵から移されたもので、阿国が信仰した33体の観音菩薩像のうち、大火で焼け残ったといわれる2体と遺品として愛用の数珠、手鏡が残されている。


奉納山からの展望
 奉納山公園
 中世の頃、廻国聖によって全国66ヶ国の聖地に経文を経筒に入れ埋経した。出雲ではこの山に奉納されたので「奉納山」と呼ばれるようになった。
 奉納山公園の頂上からの展望はすばらしい。国引き神話にある「杵築の御埼」を国引きしたときに「くい」とした「三瓶山」、その時使った綱となった。「薗の長浜」が美しい。また、国譲り神話にある天つ神との話し合いが行われた稲佐の浜、屏風岩が見下ろせ、大社の町並みを展望できるほか、笹子島の夕日など絶景のポイントである。
 標高75メートルの頂上に展望台があり、この展望台からの眺めは最高である。また、大工さんの神様と言われている「手斧神社」もある。


稲佐の浜
 稲佐の浜
 出雲大社から西に向かうと、美しく広がる遠浅の「稲佐の浜」がある。夏には、海水浴客で賑わうこの浜は、わが国創世記を物語る神話「国譲り」の舞台として有名な浜である。
 浜の周辺には、大国主命と高天原の使者「建御雷神たけみかづちのかみ」が会見し、国譲りの交渉が行われたという神話にちなんだ屏風岩(別名国譲り岩)をはじめ、弁天島、塩掻しおかき島などがある。
 『雲陽誌』に稲佐浦と記され、「伊奈佐乃社あり故に所の号とす・・・」とある。また、『古事記伝』によると「諾否いなせの儀であって、国土奉還の諾否の答えを問い給いし所なる故に」とあり、「いなせ」が「いなさ」の地名になったと記されている。
 また、出雲大社の神事、神幸祭(8月14日)や神有月の神迎祭(旧暦10月10日)が行われるのもこの浜である。
 日本の渚・百選にも選ばれており、神話の物語が偲ばれるとともに、美しい自然景観を有する場所である。


弁天島
 弁天島
 稲佐の浜にひときわ目立つ丸い島がある。古くは「沖御前」といい、遥か沖にあったといわれているが、海流が運ぶ砂で埋まってきた。
 神仏習合のころには「弁財天」が祀られていたが、今は豊玉昆古とよたまひこ命を祀る。
 「べんてんさん」と呼ばれて親しまれ、旧暦6月15日には「灘祭り」がある。昭和40年には浜から弁天島に仮橋を架け、仮橋にはたくさんの大漁旗が立てられ盛大に遷宮が行われている。
 昭和初期には、稲佐浜と日御碕間に定期観光船があった。弁天島脇にあったくじら島が、定期観光船の発着場として利用されていたが、今は砂に埋もれて姿を見る事は叶わなくなった。


屏風岩
 屏風岩
 稲佐の浜から50メートル位入った山手に、屏風を立てたような岩がある。
 この岩陰で大国主命が「国譲り」の話し合いをされたといわれる岩である。

 「国譲り神話」
 高天原の天照大神は、大国主神の経営統治している豊葦原とよあしはら瑞穂みずほの国は、我が子の天忍穂耳命あめのおしほのみことの治めるべき国であると仰せられ、統治権の譲渡を要求されることとなった。まず、使者として天穂日命あめのほひのみことが派遣されたが、3年経っても何の返事もなかった。そこで、2人目の使者として天稚彦あめのわかひこを派遣したが、これも大国主神の娘の下照比売と結婚して国譲りの要求などしなかった。そこで3人目の使者として武甕槌神たけみかずちのかみを派遣した。
 武甕槌神は天鳥船あめのとりふね神を伴って、出雲稲佐浜に降り、長い剣を波打ち際に逆さに立て、そのそばに胡坐あぐらをかいて大国主神と談判した。大国主神は「自分の一存では何とも答えられない。美保埼で漁をしている我が子の事代主神ことしろぬしのかみに聞いてくれ」といった。事代主神は父大国主神に向かって「この国は天照大神の御子に奉献したがいいでしょう」と答えると、今乗ってきた船を踏み傾け、のろいの手打ちをした。すると、船はたちまち青い芝の垣根に転じ、事代主神はその中に隠れて、再び姿を現さなかった。事代主神の弟の建御名方神たけみなかたのかみは、国譲りに反対し、武甕槌神との力比べに破れ、諏訪湖まで逃げてしまった。
 かくして武甕槌神は再び大国主神に国譲りの意志を問うた。これに対し、大国主神は次のように答えた。ただひとつお願いは、国を譲る代わりに私のすみかとして高天原の大神の御殿と同じように大磐石の石の上に太い柱を立て、大空に千本が突き出ているような立派な御殿を建てていただきたい」。そこで、武甕槌神は望み通り、出雲国の多芸志の浜に、立派な御殿を建ててあげた。


長谷寺
 長谷寺ちょうこくじ
 稲佐浜から谷間を登ったところにある出雲観音霊場第1番札所で真言宗のお寺である。
 天平年間(729〜49)の開創と伝えられる。現在地の北の滝坂の揚柳の大木のもとに、観音様が安置されていて、長い谷川があったので長谷寺といった。その後、洪水によって本尊、堂宇とも流されたが、夢のお告げにより観音菩薩の尊像を引き上げ、寛文5年(1665)現在地に建立されたという。「ろうそく祭」が有名である。
 長谷寺山門は、杵築中山長谷寺の参詣道入口にあった。参詣道入口にあった。山門には阿吽の仁王像がある。


大社漁港
 大社漁港(築港)
 大社漁港ができるまでは、主として赤塚から稲佐浜の弁天島に至る浜一面に漁船を船揚げしていたものである。
 昭和に入ると、水産業の発達に伴い発動汽船も増加し、港の建設の声が高まり、昭和8年(1933)から5ヵ年計画で笹子附近に新たな大社漁港(築港)の建設が行われた。
 築港ができ、船出、刺し網、一本釣りと活気のある漁港であった。しかし、近海での漁獲高の減少とともに漁業の衰退傾向が進んでいる。
 築港の一角に「年金波止場」と呼ばれている場所がある。天気の良い日には、多くの釣り人(??者)が集まる。また、冬になると紅イカ拾いの人もたくさん集まっている。

 築港の殉職碑  殉職碑詳細
 築港の山沿いに立派な石碑がある。
 昭和16年(1941)に烈風大波のため、山口県の船が難を避け、助けを求めた。大社の水難救助会員10数名が「新幸丸」で救助に向かうが、大波で防波堤に激突し、6名の貴い命が失われた。この事故の犠牲者を慰霊するために立てられた石碑である。


かみの宮(仮の宮)
 上の宮
 杵築北の奉納山下の仮の宮にある神社である。
 毎年10月の神在祭の期間中、全国の神々が神議かみはかり(会議)をされる社で10月11日から17日までの7日間、この社で神在祭りが行われる。
 出雲大社の摂社で、主祭神は素戔嗚尊と八百万神である。

 お忌さんとお忌さん荒れ
 旧暦10月の神在月、全国の神々が出雲に集まる期間を出雲の人たちは「お忌みさん」と呼ぶ。地元の人々は、神在祭の1週間は、神議に支障がないよう静かに慎み、青竹の塩汲桶を持ってお忌みさん参りをした。話によると戦前までは、神様がケガをされてはいけないということで散髪やひげそり、針仕事も遠慮したらしい。
 また、この時期、強い偏西風がよく吹き、寒くなり、海が荒れることが多く、これを「お忌みさん荒れ」といっている。


永徳寺坂下の大燈籠
 永徳寺坂下の大燈籠
 永徳寺坂下(現在より約60メートル東)には、明治29年(1896)に大燈籠が自然石で建立され、船が入港する目印(灯台)としての役割を果たしてきた。
 その後、大正6年(1917)には海岸道路近くに修理移設され、さらに、海岸道路新設に際し、3代目として永徳寺坂下の海岸通り脇に、高さ3.5メートルの花崗岩の大燈籠が平成7年(1995)に建立された。初代の燈籠の台座部分が残されている。

地名あれこれ
栃田
 杵築古事記によると山根通りに「鏡の池」という大きな池があった。
 今、この池は跡を残してないが、山沿いの地を「池の奥」といい、そのまわりを「土地田」といった。いつよりか「栃田」と文字が変わったが、この奉納山東方の地名を「栃田」というようになった。
 戦時中、空襲警報などの連絡網を整理するために、行政上は字山根に合併したが、「栃田」という地名や古いしきたりは今も残って、「お日待講」や稲佐速玉神社の大しめ縄づくり」などを栃田の住民で行っている。
 「鏡の池」があったと思われるところは、今や畑となり、小川が流れ、やがて素鵞川へと流れている。この川は北山から流れ出て年中枯れることなく、川のほとりにはトンボが飛び交い、夏にはホタルも見られる。
 池の奥といわれるところには、杉林があり、谷間から湧き出る清水であちこちに沼地がある。かつては、ここに池があり、夏になると界隈の子どもたちが来て、トンボ取りや鮒取りなどにぎやかな場所であったが、「とちだ」や「池の奥」の地名が残り、昔を懐かしむことができる。

仮の宮
 「仮の宮」は、古くは杵築6カ村の一つで海岸沿いの漁村であった。
 上の宮(仮の宮)があり、神有月には八百万の神々が神議されるというお宮があることから、そのまま地名となった。

中村
 「中村」は、杵築6カ村の一つで、半農半漁の村であった。
 仮の宮の南に位置し、昔、船で大川口の湊に着き、湊原御巡検道から中村の養命寺前を通って大社参拝をした。中村は、門前市として繁栄した中心地(中の村)だったからといわれている。
 出雲阿国が中村の門鍛冶職・中村三右衛門の娘に生まれ、晩年、この地の草庵(連歌庵)で生涯を閉じたところである。

永徳寺坂
 四つ角から西に向かって、「浜の四つ角」と呼ばれる交差点から海岸通りに至る坂道が「永徳寺坂」である。
現在、斐川町にある真言宗永徳寺があったことから「永徳寺坂」と呼ばれるようになったといわれている。
大阪商船が杵築港に寄港するようになると、この永徳寺坂も出雲大社参詣者が多く通るようになり栄えた

おかん坂
  中村お国座があった横の坂道で、坂の上に岡野神社があった。通称「岡大明神」。この「神社の前を通って横丁にいく坂道を「岡野坂=おかん坂」と」いった。
杵築北の雑記
中村お国座
 大正13年(1924)に「中村お国座」が浜の四つ角の北に建てられた。また、同年には勢溜にあった芝居小屋を朝日町に移した芝居小屋「お國座」、後に「行楽館」となる演舞場もでき、歌舞伎だけでなく、浪花節座や宝塚少女劇などさまざまな芸能集団が小屋掛けした。
 中村お国座では水谷八重子の講演もあった。

出雲阿国の墓
 出雲大社の西、山根の太鼓原の石段を登っていくと中村家の墓があり、出雲阿国の墓は、特別に石棚で囲った平たい自然石で作られている。
 平成14年(2002)に改修され、表通りには駐車場も整備されている。
 また、平成16年(2004)には、昭和5年(1930)に地元で建てていた燈籠を出雲阿国顕彰会が復元建立した。
 今でも、芸能関係者や歌舞伎ファンなど多くの参拝者がある。

県内初の海水浴場
 明治21年(1888)、陸軍軍医松本順氏の山陰漫遊を機に、海水浴場の検定を受け、島根県で最初の海水浴場となった。
 海には創設を記念して明治36年(1903)に建立され、「養神保寿」と刻まれた石碑がある。いなばや養神館、関屋保寿館などがあり、保養海水浴に努めた時代もあった。
 小泉八雲は特にこの地を愛し、半月の間「養神館」に滞在し海水浴を楽しんだといわれる。

塩掻島と神幸祭
 稲佐の浜の北にある岩である。8月13日夜には、出雲大社の神官が塩掻島で塩を汲み、四方に向かって拝み白幣、洗米を供え拝礼する。また、15日には塩掻島で掻いた塩を出雲大社に供えるという神幸神事にまつわる岩である。
 塩掻島も以前は波が打ち寄せていたが、今は砂に囲まれその面影はなくなってしまった。

奉納山経塚
 この遺跡は奉納山中腹に建つ於国塔の北15メートルのところにある。昭和33年(1958)に奉納山を公園化するため、遊園地の建設工事中に発見された。
 遺物として、金銅板製経筒などが出土しており、経文などを埋経した塚として貴重な遺跡である。
 なお、公園化としてブランコなど設置されたが現在は残っていない。

奉納山乳房イチョウ
 奉納山入口のイチョウは、樹齢およそ350年、高さ20メートル、大小10数本の乳柱があり、長いもので116センチもある。
 昭和45年(1970)には、町の天然記念物に指定されている。

奉納山花見の名所
 奉納山には、たくさんの桜が植えられている。春の花見にシーズンには、花見客で大いに賑わう。
 近年松枯れにより山肌が見えるようになり、桜の美しい山を取り戻そうと有志による植樹活動が行われている。

因佐いなさ神社
 別名「速玉はやたまさん」といわれる因佐神社は、屏風岩の北の山麓にある社で、『出雲国風土記』に、「伊奈佐乃社」と記され、祭神は、国譲りの談判をした「建御雷神たけみかづちのかみ」が祀られている。
 戦前は武運長久を願い、多くの人が参拝したものであり、今も勝負・進学・受験の神様として広く知られている。

速玉さんのしめ縄づくり
 稲佐町と栃田町(山根町内)の氏子が神社の春・秋祭りに大しめ縄(長さ2間)を手作り綯いでつくる。
 「頭屋」になった家は、稲わらを準備することになっており、栃田町では、7軒の家が交代で頭屋を務め、大しめ縄ができると清めて神社の鳥居に結んで奉納するという古くから続いている伝統行事である。

笹子島
 出雲二見と呼ばれる笹子島、築港の先に立つ大小2つの島のことをいう。三重県二見町にある海岸の東端に興玉神社の神石である夫婦岩は注連縄で結ばれた二つの島の間からの日の出が美しいとして知られているが、笹子島の大小二つの島の間から沈む夕日が美しいのが出雲二見といわれる所以である。
笹子の露頭
笹子トンネル近くの地層は火山灰が海底で水平に堆積し、頁岩(堆積岩の一種)となり、その後の地殻変動で隆起し、海側に40度も傾いたところもある。頁岩の間にマグマがゆっくり上昇したままで冷え固まった状態(貫入)が見られる。また、マグマの圧力で回りの頁岩がしゅう曲や断層ができたところが観察できる。
 稲佐浜にある弁天島や潮掻島もマグマや火山灰などの火成岩が冷え固まったものである。このような地層が大社町で見られるところは他にない。

養命寺
 出雲観音霊場第2番札所で、山根通り南にある真言宗のお寺で、養老元年(717)に行円の開創と伝えられている。
 出雲阿国の「連歌庵」が養命寺の西にあったが、昭和26年(1951)、山根町内会により西連寺跡に移転となった。
 観世音菩薩を信仰し長い石段があり「2番の観音さん」と呼ばれ親しまれている。

手銭記念館
西立小路にある旧家、手銭家の記念館である。代々の当主によって集められた茶道、華道等のさまざまな分野の美術工芸品が展示されている。
 江戸時代に建てられた米蔵、酒蔵をそのまま生かした風格のある建物である。

築港の恵比寿神社
 主祭神は事代主神である。大漁を祈って仮の宮船頭会前にあった。会館の移転とともに、築港の麓に祀られたものである。
 夏祭りは、旧暦6月15日、沖御前神社の灘祭りとともに、弁天島前で船頭組によって行われる。