日御碕神社
荘厳な社殿 多数の宝物
日御碕のバス停留所からすぐの石鳥居をくぐると、緑の老松に囲まれた楼門と社殿が美しく目に映る。
鎮座の日御碕神社は、主祭神・天照大御神を祀る「日沉宮(下の宮)」と主祭神・素戔嗚尊を祀る「神の宮(上の宮)」からなり、『延喜式』に「御碕社」、『出雲国風土記』に「美佐伎社」とある古社である。
平安末期(12世紀)には、すでに代表的な霊験所であるとされ、「伊勢大神宮は、日の本の昼を守り、出雲の日御碕・清江の浜に日沉宮を建て日の本の夜を護らん」との天平7年(735)乙亥の勅にある夕日の崇拝地として、皇室はもちろん、代々の幕府、諸将からの崇敬され、大名、諸将からの寄進(宝物)も多い。
現在の社殿は、日沉宮、神の宮ともに徳川三代将軍家光の命により、寛永21年(1644)に建てられたもので、両宮とも平入りの本殿が弊殿を通り拝殿に続く権現造り(東照宮造り)である。
本殿内部の天上と四壁に描かれた狩野、土佐両派の画匠による絵は素晴らしい。
江戸時代の貴重な建築として、昭和28年(1953)に社殿及び石鳥居、石燈籠が重要文化財に指定されている。
隠ケ丘
隠ケ丘
日御碕灯台大駐車場の南に一県すると古墳のような丘は「隠ケ丘」と呼ばれ、素戔嗚尊の御陵として崇敬されている。
日御碕神社の言伝えとして、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した後、国の経営を御子神の大国主神に譲り、「我が神魂は、この柏葉のとまった処に鎮めよう」と熊成峰から投げられたところ、風のまにまに美佐伎の丘に止まり、尊はこの地を最後の処としてお隠れになったので、この地を「隠ケ丘」という。
この付近から柏の葉の化石が発見され、これを「神紋石」といって日御碕神社の神紋「三ツ柏」の由来であり、日御碕小学校校章になっていた。
小野宮司家の墓碑
小野宮司家の墓碑
日御碕トンネルの上の道を横切り、御碕共同墓地を歩いていくと珍しい形をした墓碑が目に入る。大小の違いはあるが、いずれも雲形を掘り込まれた円柱状の石の上に珠をいただいている小野宮司家の墓である。
初めてこの形が作られたのは江戸時代初めの寛永のころであり、形の由来については明らかではない。
竿の雲形は天空を表し、頂の珠は魂を象徴していると考えられ、この世から離れた魂が高天原に上がって行き、神となられることを表しているなどといわれている。
小野尊光公
小野尊光公
嘉永2年(1849)生まれで日御碕神社宮司、貴族院議員などとして、山陰本線の敷設、日御碕灯台の建設、海岸道路の整備、日御碕小学校の建設にあたっては、持ち山の木材を用材として寄附するなど、ふるさとの発展に寄与した人である。
日御碕では、「大殿様」と呼んで敬愛され、また、能書人といわれ、形の整った流暢な書体で、また求めても気安く書いてもらえた。日御碕にはどの家にも掛け軸や扁額があるといってもよく、没後80年の今日でも、人気は極めて高い。
日御碕灯台
日本海の夕日と灯台
明治33年(1900)から秘台原で建築工事が始まった。石材は美保関の谷あいから切り出された凝灰質砂岩で、森山岸壁からおわし浜まで運搬した。完成は明治36年(1903)4月1日である。
地震に耐えるために、構造は石と煉瓦の二重円筒になっており、この円筒を8本のパットレスで放射線状に繋いで全体を強化している。
灯台の高さは海上から約43.65メートル、平均水面上から63.30メートルで石積みの灯台としては東洋一といわれ、明るさは48万カンデラ、光到達距離は約40キロメートルである。
平成10年(1998)に「世界の歴史的に特に重要な灯台百選」に選ばれ、平成15年(2003)には点灯100周年を迎えた。展望台から絶景の国立公園日御碕の美しい海岸線を一望できる。
経島
経島伝説
昔、大国主神がこの浜に神蔵に8万巻の経典を納めたが、後に蔵が化して島となった。崇神天皇は、これを確かめんと勅使を派遣し、祈念を凝らしたところ、日御碕大神が姿を現し、「7月7日は心願成就の日なり、吾行きて戸を開かん」とのお告げがあった。7月6日の夜、経島は鳴動して南北に裂け、7日の朝、勅使が拝見したところ、その裂け目は上下左右ことごとく経巻だったと伝えられている。
この故事に基づき、毎年旧7月7日(現在は8月7日)の夕刻に神職が渡島して神事が行われている。
経島神社
経島神社
経島は、日御碕神社の南西の海岸にあり、全島「経巻」を積み重ねたような柱状節理の石英角斑岩で、お経の本を乗せる文机のように見えるのでその名がついたと考えられる。海からは一つの島のように見えるが、中央付近で2つに分かれて、間を小船で通れるほど切り立った岸壁を成している。南側には洞窟があり、ここには、神代文字が刻まれているとの言い伝えから「文島」ともいい、古くは「日置島」とも記されている。
島は、日御碕神社の神域として一般の立ち入りは禁止されている。かつて天照大神を祀る「日沉宮」があったが、天歴2年(948)に日御碕神社に移され、現在、島には「経島神社」が祀られている。
また、この島に日本海西部におけるウミネコの代表的な繁殖地として「国の天然記念物」に指定されている。
平成29年(2017)に出雲の地は、「日が沈む聖地出雲」として日本遺産として登録され、この経島にかかる夕日の眺めは、神秘的で素晴らしいものがある。
ウミネコ
ウミネコ
毎年11月下旬に約5000羽の「ウミネコ」が繁殖のため経島に渡ってくる。4月から産卵をはじめ、5月上旬から孵化しひなが飛べるようになった7月中旬までに親鳥とともに北のほうに飛び去っていく。
ウミネコは、日本で見られるカモメの仲間で最も多い鳥で、日本近海で繁殖する唯一の種類である。猫に似た鳴き声を発することから、この名前が付けられている。くちばしの先端が赤く、黒い斑点のあることや尾羽の先端に黒帯があるのが特徴である。
経島のウミネコは、主として海面近くのイワシや小魚を常食とし、ブリに追われて海面に浮上したイワシを求めてウミネコが「トリヤマ」をつくるので、最良の魚群探知機となる。これを目印とする漁師にとっても、経島とウミネコは大切な島であり、大漁をもたらす大切な存在である。
柏陵園
魅力的風景 柏陵園
灯台付近の西海岸は、柏陵園と呼ばれる松林がある。道筋は、美しい海と岩場の景観、珍しい植物などが見られ、楽しい散歩道である。
灯台周辺は、柱状節理が発達した流紋岩で形成されている。節理は溶岩の流れた方向にほぼ直角にできていて、節理面に沿って崩壊が生じやすく、波浪によって浸食が進み、現在の海食崖が出現した。
柏陵園には、テツホンダ、オオバスギなどの貴重な海岸植物が生育している。昭和57年(1982)のくにびき国体行幸のおり、昭和天皇がこの地を訪れご鑑賞された。
黒松の林木には、トベラやハマヒサカが多く観られる。ハマビワ、ネズミモチ、シャリンバイ、ヒメユズリハなどの日本海側の東限にあたる。
戦後まもなく日御碕を訪れた武者小路実篤は、「僕の住みたいと思う処は何処だといわれ、すぐ僕の頭に浮かんだのは、戦後まもなく一度行った日御碕灯台近くの入江を見たときの感じだった。僕は一度きり見ない、僕にとっては夢のような処だが、それだけ僕にとってこの風景は魅力的だった」と述べている。
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地名あれこれ
艫島
御碕沖に浮かぶ艫島は、出雲国風土記に「トド島」と記され、トドがたくさん住めるほど餌になる魚が島の周りにいたといわれ、今でも西日本有数の釣り場として知られている。
島の名の由来は、石見方面から見ると船の艫のような形に見えることから、また、昔、月支国の彦玻瓊王が船団で襲来した時、とも綱をこの島に掛けたことからついたとの2つの説がある。
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日御碕の雑記
神の宮
素戔嗚尊が祀られている神の宮は、現社殿の背後の隠ケ丘に祀られたものを約1500年前(安寧天皇13年)に現在地に遷したと伝えられる。
日沉宮
日沉宮は、近くの海(清江の海)の日置島(経島)に鎮座してあったのを村上天皇の勅により、天歴2年(948)に現在地に遷されたもので、天照大神が祀られている。
一里塚起点
日御碕小学校の道は、昔、日御碕神社の参道であった。ここにかつて神社の鳥居があったが、現在名残りを偲ばせる石碑が立っている。中山の一里塚の起点でもあった。
出雲風土記「日御碕本」
『出雲国風土記』は、天平5年(733)に出雲国造広島らにより編さんされたもので、原本は残存しないが全国で唯一の完全風土記である。
日御碕神社に残されているのが、この「出雲国風土記」の県内最古の写本であり、寛永11年(1634)尾張藩主徳川義直の寄進したものである。
月読社
御碕バス停留所の道路を挟んだ天一山の南の県道をはさんだ高台にある神社で、主祭神は、天照大神の弟神である「月読命」である。
「この地に祀ってほしい」という奇夢により、この地に祀られたといわれている。
宗像神社
日御碕神社の後方、御碕区民会館右手の池の中央に中央に鎮座している神社であり、主祭神は、田心姫命で「弁天さん」といわれ、親しまれている。
推恵神社
旧道上の弥山さん中腹の丘にある。検校は隠岐に流され、夫人は自ら命を絶つという不幸な出来事があった86代宮司小野尊俊検校とその夫人が祀られている。
推恵とは、恵みを推し及ぼすの意味であり、検校が亡くなった隠岐と松江の楽山にも二人を祀る神社がある。
<検校とは>寺社の事務を監督する職で重要な寺社に置かれた役職であり、日御碕神社の宮司にあたるものである。(中世以降明治まで)
順式社
バスの日御碕停留所の道路を挟んだ天一山の山麓に御祭神を権大僧都、順式慶雄和尚とする「順式社」という小祠がある。
順式慶雄和尚は、82代小野政久検校の孫にあたり、仏門に入り僧になった。
戦国時代の後期に、荒廃していた日御碕神社の造営のため尽力した功労者である。数十度江戸に赴き、この甲斐あって、寛永21年(1644)徳川家光の命により現在の日御碕神社の大造営が完成した。
その後、不屈の信念と多年の尽力を称え、祀られた神社である。
神宮寺
日御碕トンネルから宇龍に向かう道路沿いにある曹洞宗のお寺である。
平安時代にが日御碕神社境内にあったことなど神社との関係が非常に深いお寺である。
境内の薬師堂の薬師如来は、日御碕神社の「本地仏」とされ、一畑薬師の姉仏で1本の木から3体の如来を彫った内の1体だといわれ、現在中国49薬師霊場36番札所となっている。
尼緑之助句碑
日御碕遊歩道沿いの海を見下ろす景勝地・柏陵園に自然石の句碑がある。
昭和中期の川柳界の第一線で活躍した出雲市高松町出身の尼緑之助句碑である。
灯台の夕陽神話抱き寄せる
この句は、昭和46年(1971)に川柳塔社の最優秀句に選ばれたものであり、この受賞を契機に昭和48年(1973)に建立された。
坂村真民の句碑
明治42年熊本生まれの、仏教精神を基調とした詩先作に特色ある詩人で、『詩集 念ずれば花ひらく』などがある。
日御碕に立つ
日本海に夕陽が沈むまで立っていた
大宇宙大和楽の念唱を唱えながら
夕日に染まり立っていた
彦玻瓊王の襲来
孝霊天皇61年(紀元前200年)11月15日、月支国彦玻瓊王がが兵船数百隻を率いて、日御碕に攻めてきた。それはその昔、八束水臣命が出雲の国が細長く狭いということで、新羅の御碕から国の余るところを見つけて国引きした。彦玻瓊はそれを取り返すためおし寄せてきたのである。
これはただ事ならじと、時の日御碕の小野検校の祖先、天葺根命11世の孫、明速祇命が勇敢に防戦にあたった。それを見ていた遠祖の須佐之男命も、天上から大風を起こしてこれを助けられた。さすがの軍勢もこれはかなわず、大軍はことごとく藻屑となった。このとき、彦玻瓊の軍船がその艫綱を結び付けていたのが、艫島である。
また、沿岸の島々の厩島、鎧島、弓懸島、矢摺島、踏分島、鎗ケ島、甲島などというは、当時の線状を伝えて名付けられたという。
この伝説は出雲の神楽の「彦張」として取り上げられている。
蓬莱島
明応7年(1498)1月に日御碕神社が炎上した。御神体は無事だったが、禊所、御供所は消失し、神宝古文書など貴重品が数多く焼けてしまった。
その翌々年の明応9年(1500)、経島の沖合約300メートルの海上に一つの島が浮き上がり、里人はこれを「蓬莱島」と呼んだ。島の上は、一面の銀砂で竹が繁茂していた。
神社では、この銀砂と竹を宮廷と将軍健(足利良澄)に奉上したが、それから十数日して浮島は、海中に沈んで見えなくなったという。
「タイワ」と呼ぶ暗礁が浮島の跡だと伝えており、足利氏の末世で世の中が騒がしかったため、日御碕の神霊が特にこの奇異を現したのだという。霊竹は神宝として禁裡、将軍家との往復文書とともに今も保存されているという。
マリンダイビング
日御碕の海は、多種多様の魚が多く、魚影の濃いものが見られる日本の海でも数少ないところであり、トビエイの大群が見られることは全国的に知られている。ライセンスを持ったダイバーが海中に潜る案内をし、ライセンス取得やダイビングの取得の指導をしてくれる。
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