平成の広域合併で出雲市となる前のふるさと大社町の懐かしい街角・杵築西地区を紹介するサイトです。
神 話 の 出 雲 国・大 社 町

杵築西地区

杵築西の概略図
  
神々の舞いと砂山のたたずまい
海の香りと伝統の息吹

 町の南西、日本海に面した小高い砂丘地を中心とする大土地、小土地、赤塚、湊原の地域が杵築西である。
 地引網など漁業が主に営まれてきたが、この砂丘地にある赤塚は、かつては広い畑を持った家が多く、砂丘地を生かした味のよいサツマイモの産地としても有名であった。
 現在、新たな住宅団地ができ、また、海岸線には大社日御碕線(稲佐海岸通り)が走り、堀川を南に渡った湊原には高齢者福祉施設が建っているなど大きく変貌を遂げている。海辺の暮らしや砂丘地での生活に不可欠だった井戸、潅水作業を偲ばせる綿井戸の跡、狭い路地や坂など、昔のたたずまいが残る地区である。
 杵築海岸の塩浜
 濃厚な塩水を作る砂浜は、塩浜といわれ、杵築海岸も鎌倉時代からの塩浜であった。
 製塩法は、早朝塩浜に大きな熊手で凸凹を付け、海水を霧状に散布し、水分が蒸発して塩分を多く含んだ砂(カンスイ)を集め、海水を注いでろろ過する。さらに、塩釜で焚き、水分を蒸発させる方法である。
 しかし、生産性が低く、製塩だけでは生計を立てることは難しかったことから、イワシ網漁に転業していくようになった。
 明治28年(1895)には、湊原に高さ15メートルの高架式製塩場ができた。台風などで倒壊が多かったが、明治42年(1909)まであった。
 また、第二次世界大戦中は仏師が不足し、杵築海岸では、塩浜が復活し、海岸近くの家庭でも庭先や戸板を使って食塩を製造していたこともあった。

白枝山
 日本海に注ぐ堀川の北側には、河口から南本通りに至る幅約50メートルの植林による松林がある。この松林は、「白枝山」と呼ばれ、長い間地域住民に親しまれてきた。現在は、その面影を残すのみとなっているが、かつては、樹齢200年を超す老松が立ち並んでいた。
 江戸時代の正保年間(1644~48)には、三木与兵衛翁が堀川を開削して、菱根池の干拓に成功しているが、その後も日本海から吹き付ける砂嵐と海岸に打ち寄せる怒濤によって河口がふさがれることがしばしばで菱根池跡も沼状化するなど、耕作も思うようにならないこともあったといわれている。
 このような窮状を見かね、杵築村の村長を務めるなど信望の厚かった「白枝屋茂助」は、松江藩に対し事業実施の許しを得て、失敗を繰り返しながら私財を投じ、苦節10年をかけて堀川沿いに防風林の植林に成功した。この植林のお陰で農民も安心して耕作に励めるようになったといわれている。


稲佐海岸通り
 大社の海岸線を走る「県道大社日御碕線」は、平成元年(1989)から道路が拡張され、平成7年(1995)に町の外周道路として、また、日御碕へ向かう新しい道路として完成した。
 通称「稲佐海岸通り」と呼ばれ、海辺には「きづき海浜公園が整備されている。
 美しい海岸線とともに日本海が一望でき、夏の海水浴やマリンスポーツの場としても親しまれている。


灘橋
 稲佐海岸通りの堀川河口に架かる橋である。
 馬渡橋ができる昭和7年まで、流下橋より下流にある堀川の橋は、灘橋しかなく、赤塚の人々にとっては、対岸の湊原方面へ向うための重要な橋だった。
 灘橋は、人がやっと渡れるだけの小さな橋で簡単なつくりであったため、堀川が増水するたびに流されてしまい、そのたびに架け替えられました。
 昭和63年以降は永久橋となり、平成7年(1995)に開通した海岸通りの主要な橋となった。生活道路であると同時に、日御碕観光の主要なアクセス道の橋として、新たな役割も担っている。


きづき海浜公園
 平成4年(1992)から赤塚・小土地にかけての海岸の砂対策として緑地帯を造成し、平成16年(2006)に完成したこうえんである。
 講演には、散策路や休憩所、バースハウス(トイレ・シャワー施設)、駐車スペースなども整備されており、日本海を臨むスポットとなっている。


大社小学校西校舎
 昭和25年(1950)、大社東小学校(768名)・大社西小学校(661名)が合併し町立大社小学校(1429名)が誕生した。昭和43年(1968)現在地に統合校舎ができるまで、それぞれ校舎(東校舎は高学年、西校舎は低学年)を使用した。
 西校舎の跡地は、上大土地の高台にあり、その後、自衛隊官舎となったが、現在は住宅地となっている。


大土地神楽
 大土地神楽は、寛政10年(1798)改の『祷家順番帳』や寛政5年(1973)の『神楽道具控帳』などの記録によると、少なくとも二百数十年来、大土地荒神社の氏子中に伝承されているもので、毎年、10月の大土地荒神社前夜祭と例祭に夜を徹して舞われるほか、出雲大社の祭礼時にも奉納されている。
 全体の構成は、出雲神楽の一典型であり、島根半島一帯に残る諸神楽の中でも、舞振り・奉楽・衣装・鳴物など長い伝統を保持している神楽である。
 「大土地神楽保存会」により、海外公演も行うなど広く活動している神楽であり、平成17年(2005)3月に、国の重要無形民俗文化財に指定された。 大土地神楽詳細


大土地荒神社
主 祭 神 須佐之男命
祭  日:例  祭 10月25日
本  殿:大社造り 間口四尺 奥行四尺
由  緒」社伝では延慶年間(1308~11)と伝えるが明らかではない。
特殊神事:(1)的射神事(2)例祭当日の祷家祭
 毎年10月の例祭で境内で「大土地神楽が舞われることでよく知られた神社である。


與左衛門原
 誓願寺の少し西に「與左衛門よざえもん原」といわれる一角がある。
 延享の頃、玄光院の山根與左衛門氏が、誓願寺へ畑4反を寄贈したもので、寺の西を與左衛門原と言われる。
 当時は、松が生えて昼でも暗かったが、現在は一面墓地になっている。
 誓願寺詳細


中道通り
 小土地の海岸から藤井精米所までの約300メートルを「中道」と呼んでおり、通りの中ほどには「中道屋」という屋号の家もあった。
 帆船や大阪商船の汽船が大阪から杵築港に入港したころの「小土地中道通り」は、乗船客の出雲大社への参詣道として大変賑わった。
 中道通りには、銀行、散髪屋、そば屋、旅館、米屋、料亭、まんじゅう屋、漁具屋、酒屋、製糸場、大阪商船杵築扱店、日用品など道の両側に立ち並び、人や荷車の往来が多かった。


中道の石碑
 小土地三区の中道通りに自然石に一風変わった漢字が刻まれた石碑がある。
 明治44年(1911)大阪商船が寄港している頃、はしけ仲仕なかしの人たちが、明治時代にこの地の発展に貢献した「藤井又右衛門」の和歌を石碑に残したものである。
 「海比呂久都句須狐故路能伊志寿恵盤宇伍歌奴玖仁農佐可愛登母見湑與」と書かれており、ひらがなに直すと次のとおりである。
 「うみひろく つくすこころの いしづえは うごかぬくにの さかえともみよ」
(大意)
 海のように広い心で行う奉仕活動は国が発展する基礎になっている


杵築海岸の風景(明治後期)
 小土地の粂坂くめざかを下った砂浜海岸の沖合には、大阪商船の汽船(600~800トン)が入港していた。永徳寺坂からの浜から出た艀舟は、5~6人を乗せて沖の汽船に向けて漕ぎ出しており、汽船の近くにいる艀舟は、小土地浜に向かっているようだ。
 汽船が杵築湾に近づくと汽笛を鳴らし、艀舟が小土地海岸と永徳寺海岸から隔月にお客や荷物を運んでいる。
 小土地浜の波打ち際には、木箱と「かます」がそれぞれ4個と4斗樽も見える。シダを使った「だばかげ」が作られ、壁の内側には砂の堆積が多くみられる。壁の近くには大きな木桶が見える。こてはイワシ、ワカメを洗ったり、鎌倉時代から続いている製塩用に使われていた桶である。


赤塚神楽
 赤塚荒神社の氏子によって伝承されてきた神楽で、特徴としては、昔の里神楽のように一つ一つのしぐさに力があり、舞いが激しいところと言われている。
平成15年(2003)には、町の無形民俗文化財に指定されている。
 赤塚荒神社は、古老の言い伝えによれば、数百年前、祠を建てて土祖神として祀っていたが、夢告により社殿を建てたといわれており、主祭神は須佐之男命である。


お骨つぁんと丹保井戸
 赤塚の地の中通りに「お骨つぁん井戸」と呼ぶ共同井戸がある。地名をとって、通称「丹保井戸」と呼ばれている。使用戸数は30戸ほどであるが、かつては40戸ほどの人々がこの飲み水を利用していた。
 高台にあるこの井戸ができるまでは、数百メートル東の法界寺井戸から飲み水汲まなければならず、明治35年(1902)に約1年かけて新たな井戸を掘り上げたといわれている。
 堀削中、貝殻と一緒に大きな頭骨をもった人骨が出土し、これを祀ったのが「地主漁神社」で、通称「お骨つぁん」である。
 以後、小祠を海辺の近くに建て、毎夏、神官の祝詞、御神楽を奏して賑やかな祭りが行われている。
 この水を飲んでいる者には、誰一人伝染病に罹った人はおらず、産湯をつかった者からは、戦死者は一人もいないと有難がられていた。
 今もこんこんと湧き出ている大切な井戸である。


馬渡橋
 堀川にかけられた橋で、湊原(大川尻)に通じる御巡検道ごじゅんけんみちと赤塚を結ぶ橋である。
 馬渡橋は、古くは駄橋と呼ばれ、中世の出雲大社参詣道の「駄橋海道」として、人馬が橋を渡ったものである。
 最初の橋は、板を載せた小さな橋であったが、昭和7年(1932)頃に欄干のついた木造の橋が建設され、昭和39年(1964)にコンクリート橋にかけ替えられた。


宍道湖西部浄化センター
 湊原にある「宍道湖西部浄化センター」は、出雲市・平田市・宍道町・斐川町・湖陵町・大社町の2市4町の下水を集めて処理する流域下水道の終末処理場であり、平成元年(1989)から供用を開始している。
 この施設の汚水の処理方式は、標準活性汚泥法で、処理水は日本海(大社湾)に放流し、宍道湖西部地域の環境浄化に大きな役割を果たしている大切な施設である。

地名あれこれ
大土地
  杵築西の北に位置するこの周辺は、古くから漁業を生業とし、延喜年中(920頃)の絵図では、人家が点在しているが、慶長のころ(1604頃)の絵図には家が密集しているところも見られる。
 地名が起こった当時は、大なるを「大土地」、小なるを「小土地」といったことによるといわれている。現在、小高い海側を上大土地、東の平坦地は下大土地と呼んでいる。

客の町
  大土地荒神社前の道沿いの集落であり、かつては大土地に含まれていたところである。
 地名の起こりは、ここにある森荒神社「通称お客さん」を祀るところから名付けられた地名である。
 森荒神社の主祭神は天照大神で社殿がなく一間四方の柵をめぐらした中を神域としている。旧十月の神在月、全国の神々が出雲大社に参集されたとき、不幸にしてこの地でなくなられた神を祀った社といわれている。
 お客さんで遊んではいけないといわれている。社には樹木が茂っているが、この樹木に触れると必ず不幸になるといわれ、この神社で遊ぶ子供はいないらしい。

新市
   杉原本店より北の約100メートルの道筋は「新市」と呼ばれている。3~400年前から市場ができたことによるものであり、本町最古の本格的市場だったといわれている。
 この通りは、大社参詣道の一つであった誓願寺より岡の坂下を通る「駄渡街道」の主要な道であった。

小土地
  小土地は大土地の南に位置し、慶長14年(1609)の絵図を見ると、人家が点在して描かれている。そのころ、大土地は人家が密集しており、小土地は極めて人家が少なかったことから、大土地に対して小土地といったといわれている。
 昭和16年(1941)頃の小土地は、杵築の中では馬場、仮の宮に次ぐ大集落となっており、一時は「古土地」を用いるようになったが、役場の台帳を替えることはできず、そのまま小土地となっている。
 また、小土地は昔、大土地村に属していたであろうが、ある論争のため小土地は赤塚村に属して、左義長(吉兆)を一つにしている。

赤塚
  杵築最南の「赤塚」は、延喜の頃(901頃)すでに人家が散在し、慶長の頃(1596頃)には、小土地の2倍の広さがあり、人家が密集して集落ができ、主に漁業を営んできた地域であった。
 「赤塚」の地名の語源は、種々あっていまだ定説がないが、
①和歌の仙、山辺赤人の塚があり、故に赤塚という説。
②出雲国造家の塚があり、棺の中に朱を入れたことからという説。
③赤塚の南に出産のときの後産の胞を祀る砂山があって、この砂山を赤塚と呼んでいたという説などが言われている。

台場
 堀川の川下の北側に海岸通りに分断されているが、「台場」と呼ばれている小高い砂丘がある。
 台場は、幕末、日本周辺に外国船が出没し、国中が大騒ぎをしたとき、これに備えて侵入を防ぐ手だてとしたところである。
 西出雲沿岸では、西から口田儀、大池、古志川(神戸川)尻、そして神光寺川(堀川)尻に大砲3挺、仮之宮に大砲2挺あったとされる。
 この高台は、かつて子どもの楽しい遊び場であり、懐かしい場所の一つである。

湊原
  「湊原」は、堀川にかかる馬渡橋より南へ、川尻(神戸川河口)までの400メートルの道路(御巡検道といわれる)の西の砂丘地帯のことをいう。
 「みなと」には、「港」と「湊」があるが、この地区は「湊」、即ち港湾としてではなく水の出入り口としてのイメージの河口の広い水域として、湊原と呼ぶようになったといわれている。
 なお、本来は杵築西湊原であるが、町内会は、昭和56年(1981)に荒木地区に正式に編入されている。
 湊原は、その昔、神戸川の港町・湊原として当時は200軒ばかりの集落をなし、歓楽街もあったという。大川湊には、500石積の廻船が帆を上げたままで川をさかのぼり、広い入江に停泊して、荷揚げや積み込みをしたといわれる。
 明治45年(1912)、鉄道が開通し、海上交通の衰退に伴い、住家も大正年間には14軒、現在は5軒となった。

杵築西の雑記
小土地の製糸工場
 明治43年(1910)に小土地に製糸工場があり、最盛期には、女子従業員80人位で操業を続けていた。
 しかし、安価で大量生産できる人造繊維の出現により、また絹の需要も減少し、養蚕農家もいなくなったことから衰退し、平成4年(1992)に閉鎖された。

恵比寿神社の夢枕
 貞享2年(1685)赤塚村の長八という者の夢枕に「長州津ノ島より、当村沖合18町の幕島に漂着した。すぐに杵築村に移してくれ」とのお告げがあり、尊像を得た。これを小土地に祀ったが、その後「幕島に旅させよ」との夢告が再度あり、その度に幕島に御旅したという。恵比寿神社では、10年に一度ずつ幕島まで里帰りの船旅を5月1日に行っていた。第8回目の昭和39年(1964)の時の参加者は5000人もあった。その後、漁業従事者が少なくなり中断されている。
円通寺祭り
 誓願寺の南西にある円通寺はいつ、だれが創建したか不明であるが、現在、円通寺会館として小土地二区の集会所として利用し、また、祠を作って、地蔵菩薩を祀っている。
 毎年8月の例祭では、夕方地元の子どもたちが、享保13年(1728)に作られた銅鏡をたたき、「えんつうじまつりだけん、まってがっしゃい」と繰り返し呼びかけながら、小土地町内をくまなく触れ回る。夜8時から祭典を行い、大きな数珠で参拝者が数珠くりを行って延命長寿を祈る祭りである。

お大師さん祭り
 小土地一区町内会では、毎年8月21日に公会堂においてお大師さん祭りを行っている。
 由来ははっきりしないが、明治のころに四国巡礼のおり、受けて帰って祀ったものとされ、以来町内講仲間でお祭りをしてきた。
 近年になって講仲間の高齢化に伴い、町内会の行事として行うようになった。

法海寺の聖観音
 赤塚の東にあるお寺で、享徳2年(1453)に創設されている。
 境内の「聖観音」は、杵築村と日御碕のの間の海中に光るものがあったことから、杵築灘4ヵ村で船を出し、二俣沖にて聖観音を引き上げ、安置したとの伝説がある。

神領杭 <詳細>
 出雲大社の神領地であった杵築西と藩領地であった中荒木との境を示す石杭である。
馬渡橋から南川尻までの約1.4キロメートルの道沿いに200メートル間隔に立てられているもので、天正年間(1680頃)以降と指定されている。少なくとも7本はあったと思われるが、現存は2本である。
 石碑の高さは約1.5メートルで表面に「従是西杵築神領」裏面に「従是東中荒木」と刻印されている。

白枝山のきつね
 昔、酒好きでたいへん人の善いおじいさんがいました。灘祭りの夜、仮之宮の親類でしこたまよばれ、帰りはみやげに料理をたくさん持たされました。ところが、夜がふけても、おじいさんは帰らず、とうとう朝になってしまいました。近所の人々も総出でさがしました。
 稲佐から灘づたいに「おじいさんよー」「おじいさんよー」と大きな声で叫びながら河口の灘橋までくると大敷網の小屋から犬が飛び出しました。その犬は、おじいさんがとても可愛がっている犬でした。小屋の中には、みやげの料理箱が空っぽなり、おじいさんは気持ちよさそうに眠っていました。
 おじいさんは、まんまときつねにだまされたのです。

御巡検道とは?
 巡検使は、江戸幕府が諸国に派遣して地方の政治の良否を観察させた役人であり、その人が、通った道を「巡検道」と呼ぶようになた。  石見地方から湊原を経て杵築に向かったと伝えられている杵築日と中荒木の境界の道路が「巡検道」といわれている。
砂浜が・・・
 かつての杵築海岸は、長い砂浜が海に延びていたが、現在の砂浜は、狭く、砂の粒子が小さくなった。
 原因としては、大社湾に注ぐ川のダム建設や堤防のコンクリート化により、粒子の大きな砂が流出しなくなったことと、海流による海岸線の浸食作用が進んだことが挙げられる。浸食された砂は稲佐浜に運ばれ、浜は広がっている。
 昭和25年(1950)頃から、砂の移動を食い止めるため防砂堤や護岸堤が造られ、砂浜の復元に努めているが、砂の粒子が小さく、季節風による飛砂が続いている。沿岸海流は、昔と同じように南から北に流れ、今後も杵築の海岸は削られ、稲佐浜は広がっていくことが予想される。杵築海岸はどう変貌するのか。