平成の広域合併で出雲市となる前のふるさと大社町の懐かしい街角・中山地区を紹介するサイトです。
神 話 の 出 雲 国・大 社 町

中山地区

中山の概略図
  
海と山々との融合
 中山地区は、杵築地区から日御碕に至る県道大社日御碕線の沿岸に位置し、美しい海岸線の沿線に位置し、美しい海岸線と山々に囲まれた地区である。
 県道が大正12年(1923)に完成し、その後定期バスが大正14年(1925)に開通しているが、それまでは、山腹を走る旧道が利用され、旧道沿いには昔の名残りを留める石碑なども見受けられる。
 また、海岸部には、幕島の海水場もあり、また、「高天原」とか「一里塚」といった地名とともに神話やいわれが残る島々など美しい海山の自然に包まれている地区である。

旧道の宇龍峠

中山旧道物語

千年以上も前からあった中山道
 大社と日御碕を結ぶ道は、千年以上前から同じ道であった。稲佐から山道に入り、一里塚 ⇒ 川井戸 ⇒ 宇龍峠までの中山道は、ほとんで標高100メートル以上のところを走り、古くは、日御碕、宇龍両地区にとって唯一の生活、産業道路であった。(幕末のころの中山道の途中から分かれ道ができ、川井戸南 ⇒ 雲見峠 ⇒ くどれ稲荷跡 ⇒ くどれ稲荷跡 ⇒ 稲佐関屋の西に続く道で、明治・大正期はこの道が主要道となった。)

江戸時代は松江藩主の参詣道
 寛永21年(1644)、日御碕神社が遷宮されてから徳川将軍の名代として松江藩主が参詣した。その後、江戸中期からは、毎年、藩主か名代の家老が参詣するようになり、人の乗る駕篭と両側を警護する家来が通れる広い道幅に整備された。当時の出雲地方では、珍しく広い山道だった。

嫁泣き坂

嫁泣き坂と茶店
 中山道は、道幅が広くなっても起伏の多い道で歩くのは楽ではなかった。大社から半道中過ぎたところかに、胸をつくような坂道があり、「嫁泣き坂」と呼ばれ、里帰りの嫁さんがここで泣いたといわれる難所があった。難所を過ぎたところや峠の見晴らしの良いところには、一息入れる茶店があった。

中山の家は、道より上になかった
 中山道が殿様の参詣道となってから、御一行が通られるのに出会うと、漁師や百姓は道のへりで土下座する時代であった。そのため、上に家があると見下すようになることから建てさせず、道の上には家がなかったという。

新道と旧道
 明治の中ごろから海岸沿いに小道ができたが、転落があるなど危険で、大正の中ごろから海岸に沿って新たな道路工事が始まり、大正12年(1923)に完成した。6つのトンネルを通る車道で、大正14年(1925)には、
難所だった二俣トンネネル
定期バスが走るようになる、この海岸道路を「新道」、中山道は「旧道」と呼ぶようになった。それでも、まだ大社への行き来は、歩く人も多く、連絡員として、通学路として利用されてきたが、昭和40年(1965)代になると、ほとんで通る人もなくなり、旧道は急速にさびれてしまった。

下の谷が上の谷に
 「新道・大社日御碕線」により、物資や人の交流も格段に盛んになった。その結果、中山地区に点在する40数戸の家の分布が変わっていき、分家する時や建て替えに伴って新道近くへ移っていった。このため、かつて川井戸の一番下にあった「下の谷」と言う屋号の家が現在一番上の家となっている。


一里塚
一里塚
 大社日御碕線の二俣から宇龍につながる旧道を登り、さらに東に入ったところに「一里塚」がある。かつては日御碕神社への参詣道のほどよい休憩所であったといわれており、出雲大社の大鳥居、日御碕小学校下の鳥居(今はなく石碑が残されている)、鷺浦からそれぞれ一里とされている。
そのため、地名はもとより、2軒ある家の屋号も一里塚と呼ばれている。
 目印として植えられた松は、残念なことに平成15年(2003年)の秋、松くい虫で枯れ松となってしまい往時を偲ぶことは出来ない。
 この一里塚のあるところは開けており、かつては田んぼもあり、山の中にこんなところがあるのかと不思議な気もする場所である。


筆投島
筆投島
 稲佐の浜から日御碕への中ほどに、幕島海水浴場の東沖に美しい鹿があり、海岸美を引き立てている。
 平安初期、当時の画壇の第一人者で、画聖といわれていた「巨勢金岡こせのかなおか」が写生しようとしたが、朝夕刻々と美しさが変化する姿をついに描ききれず、絵筆を投げたという。
 以来、「筆投島」といわれている。


つぶて岩
つぶて岩
 バス停留所「幕島」から眺めると、つぶてを積み上げたような黒っぽい島が見える。筆投島の沖に岩を積み重ねた島が「つぶて岩」である。
 国譲り神話では、建御雷神に大国主神の御子・建御名方神が力くらべを挑み、自分が負けたら要求を受け入れるという条件で、稲佐の浜から中山の海に向かって岩を投げ合ったが、力は互角で、何回も同じところに落ち、勝負がつかず、積も重なった岩により島ができ、「つぶて岩」と呼ぶようになったといわれている。


赤石トンネル
赤石トンネル
 大社日御碕線のひろげ浜手前に、平成15年(2003)10月開通したトンネルである。
 以前は、海沿いに大きく曲がった赤石・硯水の短いふたつのトンネルがあり、通称「メガネトンネル」と呼ばれ、大きなバスが通れない場所であった。
 日御碕線には、笹子、二俣、赤石、硯水のトンネルがあったが、、「赤石・硯水」は廃止され、バイパスとして新赤石トンネルができた。
 全長262メール、広い道幅で、2階建バスも通り、日御碕道路で一番快適な区間となった。


おゆう茶屋記念碑
おゆう茶屋記念碑
 中山の小這田浜の東側、枕ガ鼻の岩の上に「おゆうの茶屋」の記念碑が建っている。
 大正の頃からこの浜に「おゆう」という女性の茶屋があり、沖の船を招き寄せたという話がある。海岸道路の大社日御碕線がない時代、中山海岸で一軒しかなかった休憩所として、大社湾を通る船の乗組員に「おゆうの茶屋」は、人気があり、有名だったといわれる。
 昭和35年(1960)、有志が往時を懐かしみ建てた記念碑である。


高尾山
高尾山
 高尾山は、標高357メートルの日御碕で一番高い山である。頂上付近から眺めると日御碕は、島根県半島の最先端であることが実感できる。
 昔は、細いきこり道があって、頂上付近にあった稲荷詣に登る以外、人の登る山ではなかった。ところが、昭和17年(1942)に高尾山の頂上に海軍の監視所と兵舎ができ、道路幅2メートルぐらいの道が頂上までついた。
 しかし、終戦になると、兵舎は新制中学校の建築資材として持ち去られ、道路も草木が生えて登れない状況となっていた。
 戦後半世紀以上経った平成10年ごろ、高尾山の北側山腹の松樹伐採により、高尾山中までの海軍道路は復活し、頂上までバイクでも登れるほどである。急な道はなく、自然に親しみながら手軽にハイキングできるコースとなっている。


岐神社
地区の氏神 ちまた神社
 海岸道路からゆうゆうラインをしばらく上った旧道沿いにあり、主祭神は猿田彦命さるたひこのみこと天宇受売命あめのうずめのみことである。猿田彦命は幸の神・才の神といわれ「福の神」とし、また。天宇受売命は「美貌と芸能の神」とし、夫婦円満の神として祀られている。
 神社の説明板に「古来この地に鎮座ありしを明治7年本社に合祀すべき令あれども区民たっての請願により設置され・・・」とあるように、中山の人たちの総意によって存続した神社であり、地区全体の氏神である。
 毎年5月3日に中山区で祭りを執り行っている。
中山の雑記
みさきうみねこ海道
大社日御碕線の航空写真   稲佐浜から日御碕までの海岸線を走る道路を「みさきうみねこ海道」の愛称で呼んでいる。
 この海道からの眺めは、日御碕まで続く美しい海岸線とともに、薗の長浜、三瓶山、石見路に至る海岸線の風景が一望できる。

幕島まくじま
 波打ち際に江戸時代の捕鯨用石垣遺構のある這田浜はいだはまの上の付近一帯は、終戦直後までは広い水田であった。
 終戦後まもなく、宇龍おわし浜が海水浴場となり、賑わうようになったのにやや遅れて、中山海岸に海水浴に来る人たちに向けての部屋貸しの仕事をするようになって、水田は東屋や貸し部屋などの建物、駐車用の広場などに変わっていった。
 そうして、いつしかこの一帯は「幕島海水浴場」といわれるようになり、「這田浜」という従来の地名を口にする人は少なくなった。

ひろげ遺跡
 昭和41年(1966)の県道大社日御碕線拡張工事の際発見された遺跡で、新赤石トンネル日御碕出口付近の遺跡である。
 平成8年(1996)の調査によると弥生時代から奈良時代にかけての土器片が多数出土している。火を使う祭祀が行われた跡ではないかと考えられている。

高間ケ原たかまがはら古墳
 県道大社日御碕線のゆうゆうラインの入り口付近の中山港北西部、海岸に向かって南西方面に突出した舌状丘陵上にある遺跡である。
 古墳時代の後期の土器が発見され、2基以上の古墳が存在したと考えられている。

無縁仏の墓石
 中山には、無縁仏を弔う自然石の墓石が驚くほど多い。大げさな言い方をすれば、どこの家にも無縁仏が祀られていると思われるほど多く見かけられる。
 これらの墓石は、昔、中山沖や海岸に漂流し、打ち上げられた死者を弔ったものがほとんどである。海や海岸で見つけた死者を自分の土地に埋葬した。この他には、一里塚の無縁仏や落ち武者の無縁仏など非業の死を遂げた死者を手厚く祀った墓もある。
 大正・昭和期になると共同で埋葬し、ひろげ浜や鬼の目谷の浜に墓石が立てられるようになったが、先年の大時化で今は見受けられない。花ノ木や草花が供えられ慈悲深い心に頭が下がる思いがする。

ヤマモモの群生
 中山地区は、南向きの傾斜地であり、海に近いところでは他の地区では見られない暖地性の「ヤマモモ」、「マテバシイ」などが自生している。
 町では「「ヤマモモ」が群生している大木株を昭和48年(1973)に天然記念物に指定した。
 鎌田氏方のヤマモモは、巨大な幹が見事な樹容をなし、堂々たる樹姿である。また、古島氏方には珍しい白実のヤマモモも混生している。

中山のトウツバキ
 中山の石田氏の庭に、この地方では珍しい2本の大きな「トウツバキ」の木がある。
 うち1株は樹齢約150年の古木で樹高6メ^トル、根回り66センチ。もう1株は樹齢60年、樹高8メートル、根回り37センチとこれほどの巨木は珍しい。紅色の幅広い大花びらが、4月中旬が見ごろである。
 昭和49年(1974)に町の天然記念物に指定された。

日置風水ひおきふうすい小祠しょうし
 黒田停留所から旧道を宇龍に向かって約50メートル、通称「高見平たかんびら」の山腹に屏風のように切り立った大岩がある。
 岩面に「風水」と大書彫刻したと伝えられ、そばには、来待石で作られた小祠が祀ってある。
 江戸元禄のころ、(1688)の出雲地方を代表する俳人であった「日置風水」の偉業を称えたものである。
 日置風水は、出雲大社の神官、島家から日御碕神社の社家、日置家の養子となり、主殿、後に肥富、碑彦雄とも名乗った。「風水」は彼の号であり、全国を漂泊し、『東都紀行』や『隠岐すさび』などの紀行文を残している。
 晩年は神官を務めながら、俳文戯曲の著述に励み、また、神社の古文書の整理に尽力している。

高尾稲荷神社
 大社湾、黒田港、追石鼻が眼下に広がる場所にあるのが高尾稲荷神社である。高尾山の頂上にあったものを戦時中にこの場所に移された。
 現在の社は、昭和63年(1988)に遷宮されたものである。

水門みなと神社
 中山黒田の湾の先端にあり、毎年9月2日に中山大舟頭の主催で祭りが行われている。
 古くより「神門かんど水海の守り神」として対岸の長浜神社(出雲市)と相対し、海上の安全に水産資源の豊漁を恵み賜る神様である。主祭神は速秋津彦命・速秋津姫命といわれている。

高尾ゆうゆうライン
 中山地区から山を越えて鷺浦に抜ける主要地方道斐川一畑大社線のバイパスである。
 昭和49年(1974)に着工し、平成9年(1997)に開通した道路であり、中山地区も山中をゆうゆうと走れる道である。

小丸こまりの地蔵さん
 高尾ゆうゆうラインの大きなカーブ付近の広場(通称ループ橋公園)の一角に地蔵が7体、きれいな前掛けをして並んでいる。
 もとは小丸の山の山頂にあったが、、平成13年(2001)現在地に移され、毎年6月にお祭りがある。

川井戸地蔵
 川井戸の下りたところに「下の谷」という屋号の家がある。代々喘息の治療の灸が良く効くということで広く知られ、最盛期の対象から昭和の初年ころには、県外からも効能を聞いて灸点に訪れる人もあった。旧道の脇にある地蔵で、喘息の治療に効果がありと伝えられ、「ぜんそく地蔵」と言われている。
 毎年旧暦の7月13日に地域の6軒が持ち回りで祭りを行っている。話では数百年も続けられているという。

三滝権現神社
 天保年間(1830〜44)、夢枕に滝の神様が現れ,諭され祀ったものといわれている。当時は滝のそばの岩屋に祀っていたが、風化が激しく、平成8年(1996)に高尾ゆうゆうラインができたのを機会に、この道路脇の現在地に大きな御影石を使って建立されている。
最西端 追石鼻おいせばな
追石鼻の写真  日御碕の西端(島根半島の最西端)が追石鼻である。
 国引き神話の海岸や三瓶山はもとより、石見部の海岸まで一望できる。
 また、県道から遊歩道が設置されており、散策と釣り場としても最高である。