平成の広域合併で出雲市となる前のふるさと大社町の懐かしい街角・鵜峠地区を紹介するサイトです。
神 話 の 出 雲 国・大 社 町

鵜峠地区

鵜峠の概略図
  
海辺と鉱山の歴史

 猪目峠を右に下り、平田市の猪目の集落を海岸沿いに越目こしのめトンネルを抜けると鵜峠地区である。
 鵜峠は、出雲大社の古図には「宇道」とあり、古くから開けたところといわれる。また、『出雲国風土記』には「宇太保浜」として記されている。
 明治の初めに鉱山が開発され、銅も産出され、明治末にはセメント用石膏も採掘されるようになって、大正・昭和初期には8社も鉱山が経営され、従業員は200人もいたといわれている。
 現在は、鉱山も廃坑となり、静かな漁村となっている。
面坂トンネル
面坂トンネル
 悲願だったトンネル改修、面坂は地区の西に位置する鷺浦との境附近の急峻な坂道であり、古くから鵜峠と鷺浦を繋ぐ山越えのルートであった。
 このため、昭和9年(1934)にトンネルは開通したが、長年にわたってバス通行の支障となっていた。
 その後、バス運行ができるように平成7年(1995)に面坂トンネルの改修が完了した。


鵜峠漁港
鵜峠漁港
 「宇太保浜」と呼ばれていた鵜峠の港は、古くからの港であり、特に明治以降においては、鉱山の銅や石膏などを搬出して大いに賑わった歴史もある。今は静かな漁港として利用されている。


仏照寺
仏照寺
 鵜峠地区の町並みの中心地にあるのが仏照寺である。
 鵜峠・鷺浦・猪目の三浦は浄土真宗の盛んな所として知られ、現在の建物は大正3年(1914)に建立されたもので、浄土真宗説教所「平安閣」の額がかかっている。
 地区の寄り合いなど広く利用されている地域にとって貴重な建物のひとつである。


ほっとうたほ
ほっとうたほ
 町のサポートセンターとして平成15年(2003)に鷺浦地区とともに整備されたものである。「うたほ」はかつての「宇太保浜」からつけられた。
 施設全体バリアフリー化などに配慮し、高齢者にやさしい施設として、地区のミニディサービス、集会など広く活用されている交流・中核拠点施設である。


鵜峠神楽
鵜峠神楽
 大土地神楽を移入したものとされたが、昔は盛大に行われたが、後継者なく廃れようとしている。近年長く行われていない。また、鵜峠にもしゃぎりがある。大宮神社元旦祭に続いて1月2日に鵜峠のしゃぎりが午後2時から行われる。


越目トンネル
越目こいのめトンネル
 鵜峠地区の東端にあり、このトンネルを抜けると平田市猪目町(2005年現在)となる。
 かつて、この道は鉱山の産業道路として、町道では全国でも北海道とこのトンネルの2ヵ所だけが通産省の補助認可されたという歴史あるトンネルである。このトンネルを抜けたところに「黄泉の穴」といわれる猪目洞窟(平田市)がある。


かつての鵜峠鉱山全景
鵜峠鉱山
 鵜峠の越目浜から左に、薬師堂の赤い屋根をみながら本谷川に沿って登って行くと、船谷の鉱山がある。
 鵜峠鉱山は、明治元年(1868)に鵜峠船谷で銅鉱の露頭が発見され、今の斐川町の勝部本右衛門によって開発されたのが始まりである。
 明治16年(1883)ごろには、月産6万斤の銅を産出し、一時は鵜峠鉱山の銅の産出量が日本の価格が上下したともいわれている。また、日本で初めてセメント用石膏が産出された鉱山ともいわれ、明治40年代からは、石膏鉱石の採掘も盛んに行われてきた。
 以来、多くの企業が進出し、昭和45年(1970)の閉山まで100年に及ぶ歴史を有する鉱山である。現在、静かな眠りについた鵜峠鉱山の周辺には、多数の坑道跡が残り、排水の水質管理が今も続けられている。
鵜峠の雑記
西方寺
西方寺  仏照寺の隣にある浄土宗のお寺であるが、無住寺となっている。本尊は十一面如意輪観世音菩薩であり、33年ごとに開扉がある由緒ある観音さんである。

大宮神社
大宮神社  西方寺に隣接し、鵜峠の本通りから急な石段を上ったところにある石柵で囲まれた神社である。主祭神は、風神・級長津彦命しなつひこのみことと級長津姫命であり、日本海航路の諸船の安全を祈願するため奉祀されたものといわれている。

大歳神社
大歳神社  大宮神社の後ろの奥まったところにあり、社伝によれば、天応年間(781〜82)の創設といわれ、もとは越目にあったものが移されたものである。

越目薬師堂
越目薬師堂  鵜峠鉱山の入口附近にある薬師堂である。
 元禄年間(1690〜1704)のころ、近くの越目浜に流れ着いたといわれる薬師像を近くの住民が帰依したものである。
 母乳のない人には「霊験あらたか」とされ、遠くから母乳祈願の人が多く参詣したとされている。

鉱山道
鉱山道  鉱山道を登ってひと山越すと龍山の登山口に出る。そこからは、鵜峠の集落や遠く隠岐の島も望むことができる。鷺浦に向かって谷を下りると鵜鷺公民館の前に出る。  かつては、この道が鉱山を支え、子ども達の通学路であり、鉱山に通う通勤路でもあった。

越目浜
越目浜  明治11年(1878)の島根県勧業年報によれば鉱山の面積は22170坪、使役の鉱夫は360余名、1ヵ月の製銅24トンなどで当時著名な銅山であった。また、その後、石膏石の採掘も盛んに行われていた。鵜峠から鉱山道があり、もっぱら馬を利用して物資が運ばれていた。物資は、越目浜から船へ積み出しが行われていた。写真(上)は、大正から昭和10年頃の石膏の積み出し作業している越目浜。下の写真は現在の越目浜。

鉱山の風景
鉱山の風景  昭和30年頃の鉱山の風景