平成の広域合併で出雲市となる前のふるさと大社町の懐かしい街角・宇龍地区を紹介するサイトです。
神 話 の 出 雲 国・大 社 町

宇龍地区

宇龍の概略図
  
港の歴史と伝統
 日御碕からおわし浜を廻れと宇龍港である。
 宇龍港は、戦国時代には山陰屈指の貿易港として、また、江戸時代には北前船の風待ちの港として賑わった。
 宇龍港には、和布刈り神事で有名な「権現島」があり、また、萩の乱の首謀者「前原一誠」が戦いに敗れ、嵐を避けて潜んでいるところを捕縛された歴史もある。
 宇龍地区には、そうした歴史とともに「みんどう」、「とんど焼き」、「盆踊り」など町の中では一風変わった伝統行事が大切に守られている特色ある地区である。
 宇龍港の浜に立つと、こんもりと覆われた小山のような権現島が居座って、北西の風波を遮り、『出雲国風土記』には「宇礼保浦うれほうら」と記され、古代から天然の良港とされていた。
 古来、日御碕神社の社領地であったが、利権をめぐって鎌倉から室町時代には出雲大社領となっていることも多かったといわれている。戦国時代になると、内外の交易船が出入りし、奥出雲の鉄なども取引された。山陰海岸の問丸といまる(倉庫業者)もいて、山陰屈指の商港として栄えていた。
 江戸時代に入ると、鎖国政策により、大きい船の建造も禁止されたことから、華々しさは見られなくなったが、松江藩の冬期の囲い浦となり、お手盛蔵が軒を並べて建てられていた。その後、西回り(北前)航路が開かれて日本海を通る千石船(和船)の風待ちの避難先として賑わい、10数戸に船問屋、風呂屋、そば屋など北前船を相手とする家も多くあった。
 しかし、大正期からは、風に関係なく航行する船に変わり、北前船も姿を消し、漁船が出入りする港となっていった。


日御碕和布と和布刈神事

 遠く成務天皇の6年旧暦1月5日の早朝、一羽のウミネコが潮のしたたる海藻をくわえて飛び来り、日御碕神社欄干にこれをかけて去った。再び同じ仕種をすること三度、社人は不思議に思い、それを水洗いして乾かしたら和布になったという故事にならって、以来旧暦正月5日に行われる神事である。
 当日は、宇龍港内の権現島に鎮座する熊野神社へ宮司が神職氏子を従え、箱めばねで新しい和布を刈り上げる。舟歌を唄って渡御の儀式が行われるが、渡御船の水先人として数人の若者が寒天に下帯姿で奉仕することでも知られている。
 出雲の名産として広く売り出されていり「ワカメ」も、地元では、この神事がすまないと刈らないことになっている。

権現島

女人禁制解除

 宇龍の権現島は、数百年来女性が島に上がることを止められている「女人禁制の島」で知られていた。近年、男女共同参画推進の機運が高まっているが、宇龍地区でも権現島の女人禁制問題を検討し、平成12年(2000)に宇龍区長の名前で、女性も島に上がってよいという禁制解除の言明をし、当時新聞にも報じられた。
 実際には、その後も女性が島に上がった事実はなかったが、平成15年(2003)10月の宇龍祭りに地元小学校の女性校長の参拝によって、女人禁制が実質的に解除された。さらに、翌年の和布刈神事でも、来賓を加えた2人の女性の渡島により、権現島の女人禁制の風習は、ようやく解除されるに至った。
 今後は、海苔つみや貝取りなど、地元女性の自由な渡島の風景が見られることになるだろう。


御座浜
御座浜おわしはま

 おわし浜は「素戔嗚尊の御座おわしましたところ」ということからこの名がついたといわれる。向かいの桁掛半島も布の洞窟(現在は訛って「のろの洞窟」と呼ぶ)を望む、水清く海水浴で賑わう展望絶景のジャリ石の浜である。
 この浜の左側に、今では堤防でつながったキツネ島があり、あちこちに小さな穴が開いていてキツネが住んでいたといわれている。煙で燻すと島の東西から煙が出てくるとのこと。一時キツネは絶滅したと思われたが、このごろ、また姿を見かけるので、この島に再び住んでいるのかも知れない。
 松が美しい盆栽のようなこの島がいつまでもこのまま後世に残ってほしいものである。


海中公園足毛馬附近
日御碕海中公園

 日御碕先端から約3キロ東に寄った足毛馬あしげま浜周辺地域は、昭和47年(1972)に海中公園に指定された。この周辺は、大小様々な島や狭港、また砂浜の見られる隆起性の複雑な海岸地形が海中にまで続き、海底は岩場、砂場、海蝕洞、海中崖など様々な変化を見せる。
 ホンダワラ、アラメ、ワカメなどが波に静かに揺れる神秘的な海藻の林の中、イシダイ、スズメダイ、メバルなどの魚類が多数生息し、優れた海中景観を見せ、海中公園内は、こうした動植物を豊富に見ることができる。


宇龍の楽車
宇龍の楽車だんじり

 宇龍に継承されている楽車は、祭礼に出る練り物、引き出物の一つで、大勢の人により神幸の行列ととみ引き回すものである。御殿造りの屋台を作り、中に男装束の男児2人と女装束の男児2人の体を四隅の柱にくくりつけ、長さ10メートル余りの杉柱で担ぎ、祝歌に合わせてドウを叩き、雅に舞を舞う。
 過去何回繰り出したかは明確でないが、日御碕神社や熊野神社の遷宮や天皇の御大典などを奉祝して繰り出し、最近では、平成2年(1990)の天皇御即位のお祝い、平成5年(1993)年の皇太子殿下御成婚を祝い、繰り出している。
 一回の楽車を出すには100人以上の人数が必要で、宇龍140戸全戸挙げての大事になる。楽車奉納の起こりは、疫病による人心動揺に対処する祈願として始まったようで、北前船交流などにより工夫改良され、今日に至ったと考えられている。


みんどう
みんどう

 宇龍の年中行事の中で、極めて異様な感じを受ける行事として、8月15日の夜行われるのが「みんどう」である。この行事の掛け声から名前がついたものである。
 荒魂神社の境内に4本の麻布を垂らした「天逆鉾」或いは「清め柱」といわれる柱を立て、「ミンドン・ヤー」と唱えながら無病息災を祈る。また、高田の林神社に行き、「ミンドン・ヤー」と叫んだ後、、「なむあみだぶつ」と唱え、神社に拝礼する「ミンドン・ヤー・・」の掛け声も意味は不明である。
 疫病大流行の後に難を逃れることを願って、自然に発生した民間信仰の行事と考えられている。


盆踊り
盆踊り

 宇龍の盆踊りは、出雲地方で主流を占める出雲市の荒茅や大梶音頭のような口説き歌「山崩し」節とは異なっている。
 昭和40年代初めから中断していたが復活し、「チィトコサーチョイトコサ」や「ヤーハトセーイヤマカセ」と踊り手の囃し言葉が日本海側の北陸、東北地方の盆踊りの中にあるようで、楽車と同様北前船がもたらした行事(文化)の一つである。
 新盆の家の位牌を集め、輪の中心において踊る古い風習を残している。


精霊船送り
精霊船しゃーらぶね送り

 先祖が海難事故で亡くなった家では、盆送りの行事がちょっと違う。  盆明けの朝には、盆飾りを波止場に出し、夕方、読経とともに精霊船を海に浮かべ、波止場に置かれた盆飾りや供え物を全部積み込む。漁師の船に引かれ、沖に出て石を投げ入れ重くして綱を離す。  この精霊船送りは、数百年続いている宇龍の盆行事である。  毎年順に盆世話役(12人)が選ばれ、精霊船を造るが、毎年違う精霊船ができるのが面白い。


福性寺
福性寺

 福性寺は、宇龍新町の谷間の一番奥まったところにある曹洞宗のお寺である。
 境内にある大ソテツは、高さ6メートル、根回り4メートル、幹の途中から太さ2メートルの支幹が2本出ており、樹齢は500年前後とされ、国指定の天然記念物である。
 また萩の乱首謀者前原一誠の一行の捕縛に関与した寺で、一誠らの辞世の短歌や漢詩、残っている。一誠の遺墨(書き物)や遺品(当時着ていた着衣など)が大切に保管されていた。

福性寺にある一誠由緒の井戸
 鹿をさして 馬というてふ世の中に
 我が真ごころは 神ぞしるらめ
             一誠


立花港
立花港の今昔

 宇龍の町の東に「立花」という入江がある。入江の沖には樹木に覆われた権現島が風雨を遮ることから、宇龍港の中では一番安全な所となっていた。
 江戸時代に入ると、松江藩が宇龍港を藩船の冬期の囲い浦に指定し、立花港には藩役人の詰所や船員宿舎、食糧庫や荷物倉庫などが軒を並べて建ち、地元では立花の建物を「御手船蔵」と呼んだ。
 また、幕末から明治期を最盛期として、千石船といわれる北前船の風待ち港として多く利用され、港は賑わっていた。特に、立花港の御手船蔵は、幕末に杵築・藤間家所有の倉庫になり、藤間家の北前船は明治期は宇龍港の立花を本拠地にしていた。
 大正期に入ると、北前船は急激に姿を消し、船の入らなくなった宇龍港も寂れていくとともに、立花港の御手船蔵の倉庫群も使命を終え、現在、御手船蔵の遺構としてただ1棟だけ残っている。
 立花港への道は、宇龍の集落から山越えの一本道で、物の運搬に不便だった。昭和初年(1921)に立花浜に抜ける手掘りのトンネルが開通し、また、昭和40年(1965)代に岸壁沿いに車も通れる船着場ができて、宇龍港でも重要な小型漁船の船着場となっている。


宇龍の雑記
宇龍の船唄
 船唄は、もともと藩船の正月の乗り始め、進水式、藩侯乗船などの際に歌われた祝唄で、それが近くの沿岸の浦々伝えられていった。形式は、精錬された謡曲風で、歌うには難解な音曲になっていて歌い継ぐことが難しいとされている。
 宇龍では「ながそ節」と「目出度い節」の2種あり、和布刈神事の御座船が島に行くときは、ながそ節の「千代の春」。浜に帰るときは、目出度い節の「初春」が歌われる。
 近年、継承のため女性の会で船唄を習おうとする機運が高まり、へいせい15年(2003)秋の灯台100周年式典には男性と一緒に歌を披露している。

  のろの洞窟
のろの洞窟写真  桁掛半島の基部を東西にくりぬいたようになった洞窟で、大正期に小船が通るように開削された。透明な流れと周囲の岩の美しい眺めもあり、冷房施設が普及するまでは、夏季に涼を求める多くの客で賑わった。昭和初期、ここの生簀の活魚料理は、出雲地方のはしりとして大いに名をはせていた。
グラスボート
グラスボート写真  海中公園を散策するグラスボートが就航している(4月下旬~9月末)。船の中から変化に富んだ海岸線の景色と美しい海底の様子を眺めることができる。
黄金孟宗竹
黄金孟宗竹写真  日御碕ふれあいセンターの南方約200メートルの通称「まごべ谷」といわれる竹林に、日本で唯一の黄金孟宗竹が自生している群落がある。
 約200平方メートルの地内には黄金孟宗竹、銀明孟宗竹、金舞明孟宗竹に分類される見事な竹が一大景勝をなしている。県の天然記念物に指定されている。

荒魂神社
 宇龍の広場の横にある社で、主祭神は、速荒雄尊はやすさのおのみことであり、「荒神さん」と呼ばれ、親しまれている神社である。  春祭りには、豊漁を願ってわらで作った大蛇を神木である椎の木に巻き付ける神事がある。
竜蛇巻き神事
竜蛇巻き作業写真  4月10日、宇龍荒魂神社春の例祭に豊漁と無病息災を願う「竜蛇巻き神事」という伝統行事がある。
 わらで長い竜蛇を12ひろ(12月を表す)の長さに作り、荒魂神社の境内にある椎の古木に巻き付け、竜蛇に酒を注ぐ神事である。

林神社
 宇龍広場から上がった高台にあり、神社の前の広場から宇龍の町並みと宇龍港が一望できる。8月7日の日御碕神社例祭の前に、主祭神天葺根命あめのふきねのみことの御神霊を日御碕神社に移し、神幸神事が行われる。
 1月後の9月1日に祭礼と同じ者が神輿を担ぎ、行列を作って林神社へ帰還する八遡神事が行われ、翌年の夏まで御神霊はこの神社に鎮座する。
 また、毎年夏、この神社前の広場で民族行事「みんどう」が催される。

とんど焼き
とんど焼き写真  正月には、とんど焼き(歳徳神祭)が行われる。注連縄や正月飾り、門松など世話役がとんど場に集め、正月2日に切り出した神木竹に、作った飾り鯛などを取り付けて立て、区長の先導でとんど焼きが始まる。年明け5日の宇龍の伝統行事である。
貴船神社
貴船神社写真"  宇龍の東下町の山際の石段を登ったところにあり、シロヘビが住み、水神さんともいわれている。主祭神は、高龗たかおかみ神で、闇龗神くらおかみも祀られている。
  恵比須神社
恵比須神社写真  宇龍の東中町内の恵比須神社の由来は明らかではないが、古老の口伝えによると江戸中期の享保年間に美保関より御分霊を勧請したようであり地元の鎮守の神様として今日に至っている。 
日御碕ふれあいセンター
日御碕ふれあいセンター写真  日御碕公民館に日御碕診療所と消防施設を併設し、平成10年(1998)にオープンした。
 地域の生涯学習はもとより、健康や福祉活動の場などとして広く活用されている地域の交流・コミニュティ拠点となっている。

原石鼎はらせきていの句碑
岩にウミネコ写真  おわし浜から宇龍に向かう途中に「磯鷺はかならず巌にとまりけり」と刻まれた句碑がある。
 石鼎は、出雲市塩冶町生まれで、玄光院の西光寺に借り住まいもしたことがあり、高浜虚子門下の俳人として大正期から活躍した。この句は、大正初期の代表作として、昭和23年(1948)還暦記念に建てられた。初めは笹子トンネル附近の岩場にあったが、道路拡張により現地に移されたものである。

雲性寺と海蔵寺
雲性寺と海蔵寺写真  宇龍には雲性寺と海蔵寺と呼ばれる特異な寺がある。
 雲性寺は、北前船の出入りする時代から港の南の弘法山(雲性寺山ともいう)の中腹にあったが、平成13年(2001)道路建設のため、少し削られた頂上へ移転改築されている。
 明治の後期、大社の中村小奴の母も海蔵寺に居住したことがり、大正、昭和初年の安来節全盛期に全国を巡業した宇龍の盲目の芸人「出雲おろく」の三味線のバチ捌きの技は、海蔵寺の庵主小奴の母に基本を叩きこまれたということである。
 2つの寺が普通の寺と違うのは、檀家は一軒もなく、どの宗派にも属さないこと、明治のころには、どちらの寺も尼寺であったことなどであり、福性寺の過去帳や寺周辺の墓石からわかる。
 宇龍のような狭いところにあって、この雲性寺と海蔵寺がどのような役割を持っていたか、今ではよくわからなくなっている。