日御碕和布と和布刈神事
遠く成務天皇の6年旧暦1月5日の早朝、一羽のウミネコが潮のしたたる海藻をくわえて飛び来り、日御碕神社欄干にこれをかけて去った。再び同じ仕種をすること三度、社人は不思議に思い、それを水洗いして乾かしたら和布になったという故事にならって、以来旧暦正月5日に行われる神事である。
当日は、宇龍港内の権現島に鎮座する熊野神社へ宮司が神職氏子を従え、箱めばねで新しい和布を刈り上げる。舟歌を唄って渡御の儀式が行われるが、渡御船の水先人として数人の若者が寒天に下帯姿で奉仕することでも知られている。
出雲の名産として広く売り出されていり「ワカメ」も、地元では、この神事がすまないと刈らないことになっている。
女人禁制解除
宇龍の権現島は、数百年来女性が島に上がることを止められている「女人禁制の島」で知られていた。近年、男女共同参画推進の機運が高まっているが、宇龍地区でも権現島の女人禁制問題を検討し、平成12年(2000)に宇龍区長の名前で、女性も島に上がってよいという禁制解除の言明をし、当時新聞にも報じられた。
実際には、その後も女性が島に上がった事実はなかったが、平成15年(2003)10月の宇龍祭りに地元小学校の女性校長の参拝によって、女人禁制が実質的に解除された。さらに、翌年の和布刈神事でも、来賓を加えた2人の女性の渡島により、権現島の女人禁制の風習は、ようやく解除されるに至った。
今後は、海苔つみや貝取りなど、地元女性の自由な渡島の風景が見られることになるだろう。
御座浜
おわし浜は「素戔嗚尊の御座ましたところ」ということからこの名がついたといわれる。向かいの桁掛半島も布の洞窟(現在は訛って「のろの洞窟」と呼ぶ)を望む、水清く海水浴で賑わう展望絶景のジャリ石の浜である。
この浜の左側に、今では堤防でつながったキツネ島があり、あちこちに小さな穴が開いていてキツネが住んでいたといわれている。煙で燻すと島の東西から煙が出てくるとのこと。一時キツネは絶滅したと思われたが、このごろ、また姿を見かけるので、この島に再び住んでいるのかも知れない。
松が美しい盆栽のようなこの島がいつまでもこのまま後世に残ってほしいものである。
日御碕海中公園
日御碕先端から約3キロ東に寄った足毛馬浜周辺地域は、昭和47年(1972)に海中公園に指定された。この周辺は、大小様々な島や狭港、また砂浜の見られる隆起性の複雑な海岸地形が海中にまで続き、海底は岩場、砂場、海蝕洞、海中崖など様々な変化を見せる。
ホンダワラ、アラメ、ワカメなどが波に静かに揺れる神秘的な海藻の林の中、イシダイ、スズメダイ、メバルなどの魚類が多数生息し、優れた海中景観を見せ、海中公園内は、こうした動植物を豊富に見ることができる。
宇龍の楽車
宇龍に継承されている楽車は、祭礼に出る練り物、引き出物の一つで、大勢の人により神幸の行列ととみ引き回すものである。御殿造りの屋台を作り、中に男装束の男児2人と女装束の男児2人の体を四隅の柱にくくりつけ、長さ10メートル余りの杉柱で担ぎ、祝歌に合わせてドウを叩き、雅に舞を舞う。
過去何回繰り出したかは明確でないが、日御碕神社や熊野神社の遷宮や天皇の御大典などを奉祝して繰り出し、最近では、平成2年(1990)の天皇御即位のお祝い、平成5年(1993)年の皇太子殿下御成婚を祝い、繰り出している。
一回の楽車を出すには100人以上の人数が必要で、宇龍140戸全戸挙げての大事になる。楽車奉納の起こりは、疫病による人心動揺に対処する祈願として始まったようで、北前船交流などにより工夫改良され、今日に至ったと考えられている。
みんどう
宇龍の年中行事の中で、極めて異様な感じを受ける行事として、8月15日の夜行われるのが「みんどう」である。この行事の掛け声から名前がついたものである。
荒魂神社の境内に4本の麻布を垂らした「天逆鉾」或いは「清め柱」といわれる柱を立て、「ミンドン・ヤー」と唱えながら無病息災を祈る。また、高田の林神社に行き、「ミンドン・ヤー」と叫んだ後、、「なむあみだぶつ」と唱え、神社に拝礼する「ミンドン・ヤー・・」の掛け声も意味は不明である。
疫病大流行の後に難を逃れることを願って、自然に発生した民間信仰の行事と考えられている。
盆踊り
宇龍の盆踊りは、出雲地方で主流を占める出雲市の荒茅や大梶音頭のような口説き歌「山崩し」節とは異なっている。
昭和40年代初めから中断していたが復活し、「チィトコサーチョイトコサ」や「ヤーハトセーイヤマカセ」と踊り手の囃し言葉が日本海側の北陸、東北地方の盆踊りの中にあるようで、楽車と同様北前船がもたらした行事(文化)の一つである。
新盆の家の位牌を集め、輪の中心において踊る古い風習を残している。
精霊船送り
先祖が海難事故で亡くなった家では、盆送りの行事がちょっと違う。
盆明けの朝には、盆飾りを波止場に出し、夕方、読経とともに精霊船を海に浮かべ、波止場に置かれた盆飾りや供え物を全部積み込む。漁師の船に引かれ、沖に出て石を投げ入れ重くして綱を離す。
この精霊船送りは、数百年続いている宇龍の盆行事である。
毎年順に盆世話役(12人)が選ばれ、精霊船を造るが、毎年違う精霊船ができるのが面白い。
福性寺
福性寺は、宇龍新町の谷間の一番奥まったところにある曹洞宗のお寺である。
境内にある大ソテツは、高さ6メートル、根回り4メートル、幹の途中から太さ2メートルの支幹が2本出ており、樹齢は500年前後とされ、国指定の天然記念物である。
また萩の乱首謀者前原一誠の一行の捕縛に関与した寺で、一誠らの辞世の短歌や漢詩、残っている。一誠の遺墨(書き物)や遺品(当時着ていた着衣など)が大切に保管されていた。
鹿をさして 馬というてふ世の中に
我が真ごころは 神ぞしるらめ
一誠
立花港の今昔
宇龍の町の東に「立花」という入江がある。入江の沖には樹木に覆われた権現島が風雨を遮ることから、宇龍港の中では一番安全な所となっていた。
江戸時代に入ると、松江藩が宇龍港を藩船の冬期の囲い浦に指定し、立花港には藩役人の詰所や船員宿舎、食糧庫や荷物倉庫などが軒を並べて建ち、地元では立花の建物を「御手船蔵」と呼んだ。
また、幕末から明治期を最盛期として、千石船といわれる北前船の風待ち港として多く利用され、港は賑わっていた。特に、立花港の御手船蔵は、幕末に杵築・藤間家所有の倉庫になり、藤間家の北前船は明治期は宇龍港の立花を本拠地にしていた。
大正期に入ると、北前船は急激に姿を消し、船の入らなくなった宇龍港も寂れていくとともに、立花港の御手船蔵の倉庫群も使命を終え、現在、御手船蔵の遺構としてただ1棟だけ残っている。
立花港への道は、宇龍の集落から山越えの一本道で、物の運搬に不便だった。昭和初年(1921)に立花浜に抜ける手掘りのトンネルが開通し、また、昭和40年(1965)代に岸壁沿いに車も通れる船着場ができて、宇龍港でも重要な小型漁船の船着場となっている。
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