平成の広域合併で出雲市となる前のふるさと大社町の懐かしい街角・修理免地区を紹介するサイトです。
神 話 の 出 雲 国・大 社 町

修理免の概略図
  
堀川の流れと北山沿いの暮らし

 北山の麓から堀川を挟んで境土手(境道)にいたる地域を「修理免」といっている。地理的には北山から流れ出る清水を受け、山によって北西風が遮られ、人々にとっては住みやすいところである。
 本郷、原、中の島、駅通りなどの町名からなっており、中でも本郷は「本来の村」という意味を持ち、神領地でも最も古くから栄えた地域で、伝統的な行事が盛んなところである。
 北山沿いには、東西に国道431号が走り、みせん広場が新設され、出雲大社への東からの入り口になっている。また、堀川南には住宅が連なり、旧大社駅からの通りには、吉兆館やご縁広場もあって、神都の正面となる地域である。
 なお、弥山広場は平成3年(1991)10月、周遊型観光地づくりを進めるため整備された駐車場や多目的広場などである。
 この広場は、もと「おア田」という水田であったが、町民の健康推進広場と町営の駐車場として整備あれ、地域住民の軽スポーツや各種研修会場として幅広く活用されている。


本郷荒神社
本郷荒神社
 本郷の薬師谷沿いにある神社で、主祭神は奥津彦命、奥津姫命、土祖神であり、出雲大社の寛文の造営の際、大社領域内にあったものを修理免村の荒神社として移してものである。当時の村民は大いに歓迎し、総荒神社としてお祀りし、現実に至っている。
 ただし、享保年間(1716〜36)に原、馬場地区の土祖神として西原荒神社が祀られ、それ以来、本郷地区の神社として、夏は7月、秋は11月に祭りが行われている。


子安寺
子安寺

 本郷の弥山登山口付近にあり、当初は神光寺の別院で、天正年中(1573頃)、神光寺が弥山のふもとに移転再建された祭、仏堂として建立されたお寺である。
 本尊の「聖観音菩薩」は子安観音といわれ専ら、安産・子育て安全を願うお寺として知られている。また、「峰の薬師堂」が合併・安置されてお祀りしてある。
 なお、毎年旧暦1月(現在は2月第3日曜日)に本郷町内の人々が参加して、百万遍数珠廻しという行事が行われている。

峰の薬師堂(薬師如来)
 一説によれば、薬師谷の上流にあり、大水で流されたものを子安寺境内の現在地に祀ったともいわれ、「峰のお薬師様」と呼ばれ親しまれている。


乙見橋
乙見橋

 堀川に架かる数本の橋の中で、ただ一本荒木地区内を結ぶ駄越線の堀川に架かる重要な橋であったのが「乙見橋」である。
 通称「おとんばし」と呼ばれ、今も昔も本郷の住民の大切な生活路である。
 以前、堀川の中土手が土でできていたころは、板橋や土橋であったが、昭和40年(1965)頃にコンクリートの中土手に変わると同時期に、乙見橋もコンクリート橋となった。


吊り橋跡
吊り橋跡

 明治45年(1912)に乙見社西方の堀川沿いの水田をボーリングしたところ、冷泉が湧き出た。3坪の浴槽を持つ「乙見温泉」がつくられ、堀川に歩行者用の「つり橋」も架設された。  当時はかなり賑わったが、昭和20年(1945)に廃止となり、乙見温泉の存在を知るのは、堀川沿いにあるつり橋の古びた橋脚のみである。


乙見社
乙見社

 堀川の南、乙見橋を渡ったところになる社で、大国主神の御子神である高比売神(またの名を下照比売命)を祀る出雲大社の摂社である。
 境内回りは松木に囲まれていて、昭和の初期頃は、本郷の子ども達の程よい遊び場として親しまれていた場所である。


原山遺跡
原山遺跡

 縄文・弥生・古墳・奈良・平安の各時代から中世に及ぶ大規模な複合遺跡である。
 昭和18年(1943)に発見され、銅23年(1948)に明治大学の発掘調査によって掘り出された弥生前期の土器が、北部九州の立屋敷土器に相当したことから注目されるようになった。
 昭和25年(1950年)の調査で、弥生時代の配石墓や同時代の後期の箱型石棺墓などを発見している。特に昭和33年(1960)に斧大野実発見の「磨製石剣」は、原形を保ったもので多くの考古学者の注目を集めている。
 また、土器は出雲原山式土器と名付けられ、当地方では最古段階の弥生土器といわれている。


西原荒神社
西原荒神社

 乙見山の原山遺跡の中にある神社で、主祭神は奥津彦命・素戔嗚命・奥津姫命である。
 出雲大社上官平岡家の鎮守社であったが、原町と旧馬場町に寄進され、氏神として祀ったものである。
 その後、馬場町内は分離され、原町の氏神として寛政12年(1800)に現在地に移し、祀られている。



修理免小学校跡
修理免小学校跡

 修理免小学校は、明治15年(1882)(南原)に川方藩役所の建物を移動して学校とした。
 明治21年(1888)修理免、北荒木、中荒木の3村合併で荒木村が誕生したのを機に、修理免簡易小学校となり、明治22年(1889)に移転再建されている。
 その後、明治44年(1911)に修理免、中荒木の尋常小学校を合併し、現校地に荒木小学校が新設されている。
地名あれこれ
修理免
 出雲大社神領地の荒地が開墾され収穫できるようになると出雲大社の垣根や道路、橋などの修理を担当することになる。その代わりに租税が免除されたため、この地名が生まれたといわれる。
 つまり、出雲大社の修理を免除されるのではなく、修理を担当する代わりに租税が免除された。
 寛永元年(1624)に作成された杵築検地帳によると、杵築地区の「馬場」や「大鳥居」「中村の一部」も修理免に入っており、明治維新の際には、杵築に編入されている

駄越街道
 本郷から乙見橋を渡り、新原町、上原、上北を通って浜山に通じる道である。
 名称の由来には「途中の千石山や砂地の中を通るのには馬を利用しなければならないほどの厳しい道であったから」とか「道の形状が馬の背中に似ているから」などの説がある。
 この道は、江戸時代中期から出雲大社への東方から参拝する重要な道として活用された。


 現在の境土手から袰川に至る修理免の半分以上を占める地帯を原町という(現在の南原東・南原西・西原・原町・新原町・上原)。
 この地域は「原」といわれるように、昔は砂地を中心とする平原であったが、江戸時代末期から出雲大社への参詣道として栄えた原往還沿いに住居が立ち並び、町として賑わった地域である。

修理免の雑記
本郷東の美人岩
 本郷東の山手旧道脇にあり、昔、旧平田街道の近くの道を美人が通りかかったら、山頂の岩が美人に見とれて落ちてきた。これを「美人岩」と名付けたといわれている。 
安産詣り
 子安さんの安産詣りで男物着物をもらうと女、女物着物をもらうと男が生まれるといわれている。
山の神神社
 子安寺から薬師谷沿いに上った屋根筋にある祠で、かつては猪目側にあったものを、地区の林業にかかわる人々の安全と発展を祈願するために移転し、祀ったものである。
神光寺坊床跡
 神光寺は、貞治年間(1362〜68)に修理免の弥山山麓に創設されていたが、天正年間(1573〜91)の大洪水による山崩れにより移転しており、この旧跡は、「坊床」と呼ばれている。
 なお、坊床には開山記念の塔が建立されている。

本郷薬師谷人面巨像
 薬師谷を上り、西側の山中にある大きな岩である。
 故大谷従二氏によれば、「人面はスフィンクスのように黙したまま神秘的な笑顔を生々しく私に呼びかけに応えてくれた」とある。

修理免本郷遺跡
 堀川の乙見橋東一帯の水田の中にある遺跡である。
 昭和42年(1967)の土地改良に際し、多数の土器が出土した。
 遺跡は、古墳時代から奈良時代のもので、須恵器、土製支脚、田下駄などが出土している。

明源寺
 上原町内の表通りに面した浄土真宗のお寺である。
 明治18年(1885)に、当時の庭で解体解剖が行われ、医学の道に励む学徒が多数参加したといわれている。
 また、明治5年(1872)に学制が公布された翌年、修理免地区の学校が開設した寺でもある。

クロガネモチの大樹
 150年ほど前に、徳島から雌雄二株を持ち帰ったものと伝えられている。
 モチノキに属し「コカネモチ」、「ヨソゴ」などと同属で、いずれも樹高10メートルを越す大樹である。

南原遺跡
 旧大社駅東側から県道出雲大社線の間に広がる低地で、昭和26年(1951)に発見された弥生時代から平安時代に続く複合遺跡である。
 出土した遺跡は弥生土器、土師器、須恵器、石錘、土錘、鉄器、貝類、獣骨など多数である。

ご縁広場と吉兆館
 大社町の玄関口ともいわれる宇迦橋の西側に、平成5年(1993)、国鉄大社線廃止後の振興策の一環として、建設されたのが「吉兆館」と「ご縁広場」である。
 吉兆館は、ご縁広場は、「神話の広場」、「催しの広場」「スポーツ広場」の3つを持ち、観光の拠点となっている。すぐ横の堀川には(都)北荒木赤塚線の橋がかかり、海岸まで道路が整備され、平成17年(2005)1月には温泉の湧出も確認され、今後の地域づくりや活性化のため新たな展開が期待される。

国引き神話のレリーフ
 ご縁広場の一角にひときわ目を引く「未来を拓く」と命名された荒木文夫氏作のレリーフがある。
 大社は、国引き、国譲りなどの神話の舞台であり、国を引くがごとく人々が集い、時代を担う若人をはじめ、広く町民が交流し、新しい町づくりが展開されることを願い作られたものである。