平成の広域合併で出雲市となる前のふるさと大社町の懐かしい街角・入南地区を紹介するサイトです。
神 話 の 出 雲 国・大 社 町

入南地区

入南の概略図
  
水と田園風景

 入南地区は大社の東南、浜山の東に位置し平坦な地域として出雲市の八島町と隣接して簸川平野に連なっており、築地松や屋敷森に囲まれた簸川平野特有の住宅も多い。
 北には、高浜川が流れ、南には斐川出雲大社線(旧大型農道)が走り、その間を一畑電車が走っている。
 西には、井上恵助翁が防風林として松を植えた砂丘地・浜山があり、現在は、県立浜山運動公園が整備されて大きく変貌を遂げている。
 また、ワイン通りから出雲に向かう道もあった、交通量も多く、出雲に隣接したところでは新しいシュッピングセンターなどの施設もでき、賑わいのある地域となっている。
 入南は、遠く縄文時代中期(約5000年前)は、このあたりは神門水海であった。その後、数千年の間に斐伊川によって埋められ、縄文後期(約2500年前)には、北山と陸続きになっていた。奈良時代には神門水海は、浜山の南のほうに縮小しており斐伊川も入南より南のほうを流れていた。
 中世には入南は低湿地であったが、やや小高い土地は沢田として開発されつつあったと思われる。また、入南は朝山郷に属し(1570年朝山の内東分にうなん三段・・・)、入南も乙見神社は、このころ既にあったと思われる。(1560年、中井駿河の守神田寄附)
 その後、江戸時代に入り、三木与兵衛翁の開拓により、菱根、江田、八島、浜とともに本村となった。入南の地名の由来は、斐伊川の流れが南に転じる所といわれている。
入南から見た浜山
浜山の今昔
 江戸時代中期に高浜山(浜山)を115町歩(約115ヘクタール)にわたって植林し、砂防林を築くことに成功した功労者は「井上恵助」である。
 当時の浜山は、砂丘地のため季節風が砂を飛ばし、付近一帯は荒地に等しかった。松江藩は、寛延3年(1750)から宝暦初年にかけて植林事業を試みたが、ことごとく失敗していた。恵助は、自ら浜山造林を志し、2年間の試植後、藩の許可を得て宝暦13年(1762)から本格的な植林事業に取り掛かった。事業は資金面・技術面で困難を極めたが、16年目の安永7年(1778)に完成させた。
 この植えつけに要した材料は、松苗90万本、柳15000本、藻粕(斐伊川旧河川で腐食性土壌)15万4500荷などであったという。
 その後、恵助の子孫が浜山の管理を任されていたが、大変苦労し恵助の孫にあたる井上清兵衛が文久2年(1862)に浜村庄屋五郎右衛門(入南長岡家六代)えお通して、郡役人に援助を願い出た文書がある。  要旨は次のとおり。
 「浜山に手入れについて嘆願。近年風雨が激しく、大風で松が根返り、枯失したり、大雨で水砂とも流出し、一丈八尺位の谷ができ、浜裾の田畑へ流出し百姓難渋し、風下の数カ村の田地に影響が出ている。今後も浜山の砂防手入れに精をだしますので、どうか先年通り米20俵下されたくお願い申し上げます。」
 浜山は藩有林であったが、明治に入り払い下げられ私有林となり、戦前は陸軍の演習場として使われていた。昭和30年代に入ると、大型農道(県道斐川大社線)が浜山を切り裂いて通り、最近では大社町分の大部分が県立の一大運動場や公園となっている。


入南水門(大水門)
入南水門(大水門)

 入南と遥堪の境の高浜川に設けられている一般には「大水門」とよばれている水門がある。  高浜川の流量を調整し主に入南、菱根地区と遥堪地区の一部への灌漑用水を配水するために作られたものである。  江戸時代に設置されたものであるが、現在のものは昭和7年(1932)に竣工、さらに昭和35年(1690)に電動式に改修されたものである。  古い地図では、大字菱根の字「見ア」と接し、この地点は入南、遥堪、菱根の3大字の接点となっていた。  なお、「見ア」の字名は、土地改良の際になくなり、町名として残るのみで現在地は遥堪に接している。


入南橋
入南橋

 古くからの入南から山手に向かう主要道であり、遥堪小学校南の高浜川にかかる橋である。
 昔は土橋で荷車がやっと通れる狭い橋であったが、昭和46年(1971)に現在のコンクリート橋となった。
 この入南橋の南の袂に『是より北みせん通り23丁 村々寄進』と書かれた高さ80センチメートルくらいの道標がある。
 1丁は約109メートルであるから、2507メートルということになる。旧道の杵築平田街道から弥山への行程を示したものであろう。


合併までの旧遥堪村役場
遥堪村役場跡

 旧遥堪村役場跡1
 明治22年(1889)に市町村制が施行され、遥堪村、菱根村、入南村、浜村の4カ村をもって遥堪村となり、役場を乙見神社前に設けられた。当時廃校になった入南分校跡を利用したものと思われる。
 旧遥堪村役場跡2
 明治33年(1928)、浜村は分離して高松村(出雲市)へ所属した。役場は入南町内の民家の一部を借用して昭和の初めまで続いた。現在は畑となっている。
 旧遥堪村役場跡3
 昭和3年(1928)の御大典を記念し、役場庁舎を入南字土手の高浜川沿いに新築移転した。秀峰弥山を仰ぐ格好の位置で、現JAいずも遥堪支店の用地内(土地改良完工碑の付近)に建っていた。
 昭和26年(1951)に大社町として合併するまで、地域行政の拠点として重きをなし、合併後は連絡所として引き継がれ昭和34年(1959)の連絡所の廃止により姿を消した。


乙見神社
入南の乙見おとみ神社

 入南中町にあり、主祭神は下照姫命(大国主神の姫御子)と大年神(五穀豊穣の神、農耕の守護神)を祀る。
 『雲陽誌』の入南の項に「永禄3年(1560)中井駿河守綱家神田を寄附せり」とあるのを見ても、440年くらい前に勧請された神社である。
 境内に「社稷神(社日さん)荒神さん、内務省と記された水準点(海抜2メートル)の標石がある。
 入南に宮戸八軒と呼ぶ家がある。これは入南乙見神社の氏子で、入南に早くから入植した家で、乙見神社を祀り守ってきた家といわれている。


入南四橋(楯石橋、上楯石橋、鑓ヶア橋、鑓ヶア橋大橋)
入南四橋

 鑓ヶアの北東の高浜川と古内藤川にかかる橋が集中している所がある。古内藤川にかかる鑓ヶア橋、もとは「加茂屋橋」といっていた。土橋であったが、昭和7年(1932)にコンクリート橋になった。同じく古内藤川にかかる鑓ヶア橋大橋。そして高浜川にかかる楯石橋と上楯石橋の四つの橋である。ちょっと珍しい地点といえよう。
入南あれこれ
入南説教所
入南説教所の写真  入南乙見神社脇にある建物である。
 創立は明治16年(1883)で、大正15年(1926)に現在地に移転されたものである。仏間仏壇に本尊阿弥陀如来の尊像軸があり、建具、欄間仏具などの荘厳も整った寺造りであった。
 現在、内部を改装して総合センターとして利用され、今も報恩講が行われている。


関講さん
御分霊の祠の写真
 毎年田植えが終わったころ、議員2人が美保関の美保神社に参詣し、家内安全のお札をいただき、議員に配る。講の神様は、美穂神社から御分霊していただき、小さな祠の中に納めてある。
 講の始まりは定かでないが、一番古い資料では、慶応2年(1866)の三穂大明神講中帳とある。講員は、入南上町内の住人で2005年現在は7軒である。


代官橋
代官橋の写真  入南本郷から浜下に行く途中の古内藤川に架かる橋である。江戸時代、殿様(代官)が鷹狩をこの入南で行っていたことから名付けられたといわれている。

入南揚水機場
入南揚水機場の写真  高浜川と古内藤川の合流地点にあり、入南地区の水田への給水のために設置されている。

浜山公園北口駅
浜山公園北口駅の写真  一畑電鉄旧鑓ヶア橋停留所を昭和52年(1977)に改称、県立浜山運動公園への近道として、また、大社高校の通学駅として利用されている。

道標
道標の写真
 鑓ヶア北町内、周藤理容店の西角、町道交差点に「左平田、右今市」と刻まれた石造りの道標がある。「御大典記念建立・遥堪青年会」と刻まれている。大正天皇御大典記念に建立されたものではなかろうか。当時は県道で交通が多かったらしい。

弘法大師像
弘法大師祠の写真  鑓ヶア西町内の浜山公園北口駅入り口付近にお堂があり、「木像と石像」の2体の大師像がある。この北方約400メートルにもある大師像と同時期の明治の後期に地区の有志により入仏建立されたものでないかと推察される。近年は、鑓ヶア四町内が輪番制で毎年念仏供養と地区ふれあいのお祭り行事が開催されている。また、このお堂の隣に社稷神(社日さん)もある。

往還道
現在の往還道の写真  この道は、江戸時代から明治ごろまでは杵築街道とよばれていた。その後、県道大社平田線になったが、地元では往還といって親しんできた道である。