明治の大社町風景 |
現在作成中で、当時の貴重な写真を追加しています。古い写真をお持ちの方はご一報ください。
明治元年
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1868年
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・明治改正により、富興行廃止となる。これにより不景気となり、町内で騒動が起きる原因となった。
・小田川久米三郎(市場)杵築で初めて野焼かまぼこの製造に成功する。 ・遥堪地区の一畑道は廃道となる。 |
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明治2年
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1869年
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・7月町民百姓一揆がおこり町内の豪商襲われる。2500人から4000人が参加したと言われる。
・鵜峠浦字船谷で銅鉱露頭を発見、勝部本右衛門、銅山試業。 ・荒木の一文橋は、渡り料一文であったため一文橋という。 |
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明治初期
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1870年頃
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明治4年
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1871年
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〇左写真、明治初期の日御碕神社、日沈宮の拝殿正面で、ちょんまげ姿の人々が祭礼に奉仕している様が見える。
・出雲大社、官幣大社に列せらる。 ・日御碕神社国幣小社に列せらる。 ・鷺浦金山銅山は一時閉鎖となり、鵜峠浦字船谷銅山が栄える。 |
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明治5年
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1872年
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・大地震発生、四つ角から大鳥居まで大概の家屋倒壊の被害。宮の馬場の石橋裂ける。
・杵築において人力車初めて行われる。当初三十五台位。 ・修理免村の流下は杵築村に、同じく修理免村の川方は荒木村となる。 |
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明治6年
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1873年
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・杵築を東西南北の四村に統一された。
杵築東村 宮内分、越峠分(修理免分の大鳥居を含む) 杵築西村 大土地分、赤塚分(小土地分を含む) 杵築南村 市場分、修理免の内、馬場、下原、流下等 杵築北村 中村分、仮宮分 *明治維新までの杵築の地は六村だった。(市場村、越峠村、中村、仮宮村、大土地村、赤塚村) ・出雲大社の神事相撲は大鳥居西脇に九十坪余りの角力場があったが、この年廃止された。 |
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明治7年
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1874年
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・学制に基き、日御碕小学学校、杵築小学校を創設。杵築小学校は更に四分割された。
(大土地誓願寺を杵築第一番小学、馬場神光寺を杵築第二小学、中村妙行寺を杵築第三小学、市場西光寺を杵築女子小学と称す。) ・鷺浦ではじめて石油ランプ付く。 |
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明治8年
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1875年
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・第一期漁港修築工事完成、出雲阿国塔の建設と奉納山の公園化。
・出雲大社祖霊社を銅鳥居前、松の馬場の西側に創建し、氏子の祖霊を鎮祭す。 ・杵築町に警察出張所大鳥居勢溜に置く。杵築郵便局、越峠分より市場に移転。 ・中荒木小学校を荒茅小学校(光円寺)に合併。 |
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明治9年
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1876年
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・出雲大社教会規約を改定、本部の名を、出雲大社教院と改称する。
・萩の乱に敗れた「前原一誠」神門郡宇竜浦に逃避してきたが投降する。 |
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明治10年
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1877年
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〇左の勢溜の写真は、江戸時代の鳥居前の面影をとどめている写真としては、最も古いものである。
右奥には、出雲地方唯一の芝居小屋があり参拝客でにぎわった。
・修理免、北荒木、荒茅の三小学校を合併、公共北荒木小学校とする。 ・遥堪極楽山観音堂建立される。 ・北荒木小学校教諭、山田栄吉(原町上原)、珠算に四つ玉を用いて教え、また九々の珠算を教える。全国的に初めての試みであり、新しい珠算の先駆者である。 |
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明治11年
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1878年
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・鵜峠船谷鉱山の荒銅生産量は年間350トンに達した。明治16年頃までは日産6万斤の銅を出し、従業員は三千人を越え隆昌を極めた。
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明治12年
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1879年
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・写真は、杵築市街図。
・コレラ流行、二人死亡、予防人気おだやかならず。 ・大字遥堪小学校を公立遥堪小学校と改称し初等科(二年)中等科(二年)高等科(二年)の三科に分ける。 ・杵築人口 五千五百十三人、戸数 千三百十九戸。 |
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明治14年
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1881年
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・出雲大社社社殿修理完成、5月15日正遷宮執行。
・西光寺本堂焼失する。 ・杵築警察署を今市に移す。 |
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明治16年
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1883年
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・皇后、千家尊福に命じ、皇太子嘉仁親王(大正天皇)の成長を祈願せしむ。
・玄光院西光寺再建される。 ・富屋町を奥小辞路と改める。 |
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明治18年頃
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1885年頃
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明治19年
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1886年
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・出雲大社第一回例祭を行う。大祭期日を5月14日〜16日までに改正する。
・日御碕村火防組設置。 ・明治の半頃まで、杵築では祝凧を春の順風を利用して揚げたという。 |
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明治20年
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1887年
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・杵築東小学校を杵築東尋常小学校と改称する。杵築西、遥堪も同じく改称。
・官命により日御碕日鎮宮遷宮。 ・鵜峠に簡易小学校設置される。 |
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明治21年
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1888年
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明治になると欧米より海水浴による医療効果が移入され、全国的な海水浴場開設ラッシュとなった。今でこそ海水浴は、スポーツ・レジャーの一つであるが、もともとは病気治療のために始まった。
このようなとき、いち早く海水浴に注目した陸軍軍医総監松本順が、医師の立場で各地に海水浴場の設置を提唱していた。おりしも、松本が明治二十一年山陰地方を歴訪した際に大社に立ち寄り、 稲佐の浜を視察したのがきっかけとなり、この浜が遠浅で眺望絶景であることから海水浴場の設置を推薦した。これを受けて、地元の医師石部元順は、西山関一郎の協力を得て海水浴場を開設した。これが島根県で最初の海水浴場となった。 当時は、診療所、海水温浴場が設置され、石部、西山両医師により病気療養の指導が行われていた。宿泊施設としては「養命館」があり、他に旅館として「保寿館」などがあった。やがて料亭や茶屋、貸座敷ができ、盛況であった。 ・遥堪小学校校舎を現在の地に移転する。 |
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明治22年
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1889年
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・杵築東・南村は杵築町、西村・北村は杵築村、修理免・北荒木・中荒木は荒木村、遥堪・菱根・入南・浜は遥堪村、鵜峠・鷺は鵜鷺村、日御碕・宇竜は日御碕村となる。
・杵築町長は藤間源左衛門、杵築村長は渡部道徳、遥堪村長は松井猪三郎、鵜峠村長は和田良曹、日御碕村長は広沢幸得となる。翌年、荒木村長に山ア佐太郎就任。 ・杵築町に電話局設置される。 ・大社地方で初めて座繰り製糸工場が出来る。 |
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明治24年
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1891年
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・ヘルン第二回来遊、稲佐養神館に約二十日滞在し海水浴など楽しむ。
・四本松森山製糸場で蒸気汽鑵を用いて当地方で初めて創業す。杵築地方の産業革命のはじまり。 |
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明治25年
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1892年
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・大鳥居信用組合設立。杵築郵便電信局開局式行う。
・山陰新聞紙上に「出雲阿国の由来」連載はじまる。 ・杵築町に電話局設置される。 ・日御碕神社神の宮正遷宮。 |
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明治26年
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1893年
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・鷺道路開通式。(明治二十四年起工で工費は八千円)
・日御碕簡易小学校を日御碕字高門に校舎を新築移転し、日御碕尋常小学校と称す。 |
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明治28年
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1895年
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・前年勃発した日清戦争終る。町内の戦死者6柱。
・鷺浦農業協同組合できる。 |
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明治29年
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1896年
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・出雲、楯縫、神門郡を廃して簸川郡を置く。
・大社両山鉄道株式会社創立総会開催さる。 ・玄光院所讃寺を赤塚法海寺の本堂として移転する。 |
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明治30年
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1897年
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・馬場の戸数は八十軒。町内会は大山中、馬場東、馬場西、東中、小山中の六町。
・平田銀行大社支店、斐川銀行大社支店開設。 |
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明治31年
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1898年
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・斐川郡立島根斐川郡尋常中学校開校。(大社高校の前身)
・杵築村藤井又右衛門、杵築海岸砂防林完成。(明治初年より尽力、費用三千余円。 |
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明治32年
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1899年
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・島根県斐川郡尋常中学校を島根県斐川中学校と改称、新校舎(現出雲高校)に移転。
・加藤弁三郎誕生。(後に協和発酵株式会社社) | ||
明治33年
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1900年
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・大阪商船、大阪〜境港線隔日一回両地発航路の鷺寄港とす。
・郡立斐川中学校(大社高校の前身)の建設地が杵築町に決定されたことに今市住民憤慨。数百人が千家邸、祖霊社等を襲い乱暴狼藉を極む。 ・浜村、遥堪村より分離して朝山村(後の高松村)に合併する。 |
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明治34年
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1901年
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・斐川中学校に野球区倶楽部誕生。校名を県立第三中学校と改称。
・杵築町鹿城丘で県立第三中学校校舎建築始まる。(写真) ・夏、ヘルン四度目の来遊。約一ヶ月滞在。 |
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明治34年
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1901年
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・日御碕灯台建設工事着工。工法は石積み式で高さ30センチ、幅60センチの石材を積み上げて作られ、現在でも東洋一の高さを誇っている。石材はトロッコ橋で現場まで運んだ。
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明治35年
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1902年
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・写真は日御碕灯台の石材を運ぶためのトロッコ橋。
・斐川郡水産組合を杵築町に設立。 ・県立第三中学校、鹿城丘校舎に移転、講堂の竣工。 ・出雲大社所蔵「秋野鹿7蒔絵櫛笥筥」一合、国宝に指定。 |
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明治36年
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1903年
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・日御碕灯台竣工(一等灯台、高さ基礎上四十四m、光達四十km、建設工費十二万円。
・大阪商船は、冬期以外は鷺港より杵築湾が便利と3月〜10月の寄港地とす。 ・旅館因幡屋新築。(当時の一流旅館) ・県立第三中学校、新校舎にて開校式を行う。(11月3日) |
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明治37年
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1904年
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・日御碕神社蔵甲冑二領、国宝に指定される。
・この頃を境に町内の大凧揚げ止む。 ・越中富山の千金丹売りから金ピカ服の日本一薬館オチニ氏来町するようになる。 |
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明治39年
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1906年
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〇明治の吉兆行事。明治頃までは、1月14日に行われた「とんど行事」の一つだったが、現在は1月3日に行われる町内の正月行事となっている。
・第三中学校、野球部対外試合初勝利。 ・杵築戸数一千七百五十、人口八千九百余。 |
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明治40年
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1907年
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・鵜峠・鷺浦小学校合併し鵜鷺小学校となる。これに伴うトンネル工事は難を極め三回目で完成。 ・島根県立第三中学校を島根県立杵築中学校と改称。 ・皇太子(大正天皇)出雲大社にご参拝。 ・皇太子、東郷元帥杵築中学へ行啓し前庭にそれぞれ松樹お手植えさる。 ・この頃より鵜峠、杉谷産業鉱山始まる。 |
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明治40年頃
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1907年頃
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日露戦争をはさんで、西洋の風俗は堰を切ったように流れ込んだ。女性の髪形、リボン、縞模様の海水着の流行もこの頃だった。
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明治40年頃
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1907年頃
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○明治40年ごろの杵築浜。沖に大阪商船が停泊し、それを迎える風景写真。明治45年の国鉄大社駅が開通するまでの杵築港には、 遠近両用の航路が開かれており、日々乗降客と海産物の集散でにぎわった。 |
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明治41年
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1908年
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・杵築郵便局、公衆電話開始。
・千家尊福、西園寺第一次内閣の司法大臣に任ぜられる。 ・県立杵築中学校、寄宿舎竣工。 ・杵築水産株式会社設立す。 |
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明治42年
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1909年
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〇左の写真は、明治末期の勢溜、整備にともなって、旅館などの商家ができた。
・杵築実業補修学校創設 ・乃木希典夫妻、出雲大社参拝。 ・出雲大社蔵(糸巻太刀(銘光忠)国宝に指定される。 |
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明治44年
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1911年
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〇鷺浦の稚児行列、鵜鷺の八千代橋を渡る宗祖親鸞聖人650回帰忌大遠忌法要の稚児行列で、
真宗門徒の多い土地柄をあらわしている。
・中荒木尋常小学校及び修理免尋常小学校を荒木尋常小学校となる。 ・杵築線、鉄道敷設法に追加される。 ・荒木村小学校校舎新築移転。(現校舎) |
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明治45年
大正元年 |
1912年
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〇大社駅の工事風景、役人の姿、作業員の服装もさまざまであるが、着工の喜びにあふれている。
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〇完成した大社駅、発車を待つ蒸気機関車。
<大社駅が支線となった経緯> 当時今市町は出雲平野の商業・農業の中心地として発展途上にあったが、出雲大社の所在地としての大社町が町勢盛んであり、人口も、今市町6,600人、大社町8,900人であったので、 当然大社町まで延伸することが考えられ、最初の計画は、大津町西端から今市小学校裏を経て大社町を通過、海岸線に沿って多岐村の小田駅附近に至るという計画であった。 現在なお、西浜地内には測量杭が残っている。ところが、今の常識では考えられないことが起こった。「出雲大社のおかげでできている大社町のど真ん中、 しかも、お社の附近に駅を設けたのでは参拝客が商店や旅館を素通りすることになるから、なるべく町外れへ」という意見や、「本線になったら場合、旅客は大社に下車せず通過するから本線となるのは困る。 支線にすれば終点となるから必ず旅客も大社へ降りる」というような反対意見が出て、支線になるような運動が功を奏し現在のようになった。 |